淡麗辛口ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
詳細は「日本酒辛口ブーム」を参照 1960年代にかけて日本酒の濃醇辛口から淡麗甘口への移行が起こったが、ひとたび三増酒主流からの脱却が始まると、それまでの甘口への反動として「淡麗辛口ブーム」が起こり、約20年ほど続いた。 米軍占領期まで安全醸造が日本酒造りにおける至上命令となっていたころ、腐造した酒を審査で落とす目安として、鑑評会で色のついた完成酒を減点するという時代があった。このため出品する酒蔵は、たいてい黄金色がついている上槽したばかりの酒に活性炭濾過をほどこし、酒から色を抜くことに力をそそいだ。このように濾過すると色は抜けるがコクや雑味も抜けてしまう。その結果「淡麗」と表現されるあっさりすっきりとした酒となる。 新潟県中越地方はもともと濃醇な地酒を誇る産地であったが、一方ではこの活性炭濾過を専門職とする「炭屋」(すみや)と呼ばれる職人たちを多く抱える越後杜氏の本拠地でもあった。そのため少量の炭で要領よく色や味を抜く炭掛け(すみがけ)の技術が発達していた。1972年(昭和47年)雑誌編集者であった佐々木久子が新潟県石本酒造の『越乃寒梅』を雑誌に紹介し幻の酒として有名になった。全国的に新潟の酒が売れ始めた嚆矢とされる。 『越乃寒梅』で自信をつけた越後流の淡麗な酒は、1985年(昭和60年)ごろ日本酒市場へ大規模な売り込みをかける。それまで主流だった灘や伏見の大手メーカーによる酒が甘くくどくなっていたことに飽いていた消費者は、反動としてこの新潟酒を好感した。そこへ、1987年(昭和62年)に朝日麦酒からアサヒスーパードライという辛口のビールが発売され、記念碑的なヒットを打ち出した。これが日本酒へも伝播し、日本酒においても辛口ブームに火がついた。消費者が好感している要素の大きな部分が「辛口」であることを見出すと、新潟酒はどんどん辛口になっていった。また、もともと「端麗」と書かれていたが炭掛けした酒の味のイメージから「淡麗」に変わった。酒米「越淡麗」(こしたんれい)が新潟県の奨励品種となるに至り、「淡麗」という語もすっかり「端麗」とは別のニュアンスを持つ語として定着していった。新潟県はもともと全国有数の米どころであり、消費者から見ても米と酒のイメージが結び付きやすかったことから、新潟酒は商業的にも成功をおさめ、「酒は新潟に限る」といった考えを持つ消費者も多く現れたという。 この傾向を見た他県の酒蔵も、次々と淡麗辛口へと路線を変更していき、やがて日本中で淡麗辛口の酒が造られるようになった。香りを引き出し味をスッキリさせるために行なわれていたアルコール添加も、製成酒を辛くするのが目的で行なう蔵も現れた。炭で味を削り、アルコール添加で味を辛くして出荷するのであれば、本来の「醸造によって味を造る」という原点からは外れていくのであるが、ブームの勢いは圧倒的なものがあった。 消費者のあいだには「良い酒とは辛口、悪い酒とは甘口」といった誤った図式が流布し、甘口と旨口(うまくち)の区別すらつかない味覚的に熟達していない消費者が、昔ながらの地酒ふうの濃醇さを忌避し、水のようにサラサラとした清酒だけを本当の日本酒と信じる時代がつづいた。その背景には、前世代の重厚長大への反動として、何につけても軽薄短小を好み、ポスト・モダンなどといったことをもてはやすバブル時代前後の空気があった。[独自研究?] また、食生活の欧米化が進んでバターやオリーブオイルなどを油を多用する料理を日常的に食するようになっていた日本人にとって、それらと食卓で合わせる日本酒として、またある意味で白ワインの代替品として、淡麗辛口が好まれた。
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