消防組による出初式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 17:56 UTC 版)
明治元年(1868年)、新政府によって武家火消はすべて廃止され代わりの消防組織として火災防御隊が設けられた。町火消は町奉行所に代わって市政裁判所に所属することになる。しかし火災防御隊は翌年に廃止され、町火消の所属も明治7年(1874年)にかけて東京府・司法省・内務省と次々に変更され東京府所属時の明治5年(1872年)には従来の町火消から消防組39組へと改められた。この間、出初式は各組ごとの町内で行われ組織として統一された出初式は行われなかった。 明治7年(1874年)、東京警視庁が設けられ消防組は東京警視庁安寧課消防掛の所属となった。翌明治8年(1875年)1月4日、すべての消防組が八代洲町の東京警視庁練兵場に集結し第1回東京警視庁消防出初式が行われた。出初式の様子は3代目歌川広重により錦絵となり、纏を持って整列する消防組の姿・赤く塗られた消防ポンプ・梯子乗りの披露などが描かれている。この出初式が、現在行われている東京消防出初式(東京消防庁主催)の前身である。第2回となる明治9年(1876年)1月4日の出初式は、御所御車寄せの広場にて開催され明治天皇が臨席。以降も毎年1月4日に出初式が開催されていった。 明治13年(1880年)、東京消防庁の前身となる消防本部が誕生。明治27年(1894年)2月9日には消防組規則が制定されそれまでは各市町村の条例により、あるいは私的に設けられていた日本各地の消防組織に代わり警察署長が監督する官設消防組が全国的に組織されることとなった。明治32年(1899年)、消防出初式順序が制定され慣例で行われていた出初式に警視庁訓令による規定が設けられた。その第一条は、「消防出初式ハ毎年一月四日之ヲ挙行ス。但シ当日雨雪ニ際スルトキハ同月六日トシ、尚当日雨雪ナルハ之ヲ行ハス」であった。 東京での出初式は大正5年(1916年)から1月6日の開催となった。昭和4年(1929年)1月6日の出初式は宮城前広場(現在の皇居前広場)に特設消防隊と全国消防組が集結し、昭和天皇臨席のもとに親閲式として行われている。昭和14年(1939年)、現在の消防団の前身となる警防団が誕生。警防団は戦争に備えて防空や水火消防を担当することとなり、消防組は警防団に吸収されてその役割を終えた。東京での出初式は昭和15年(1940年)から帝都消防検閲式と改称され、1月15日に代々木練兵場で開催されることとなった。帝都消防検閲式は模擬火災に焼夷弾を使用するなど、戦時色が濃厚であった。昭和20年・21年(1945年・46年)の出初式は戦争の影響で行われず戦後初となる出初式は名称を帝都消防出初式と改め、昭和22年(1947年)1月15日に開催された。 「消防組の出初式」江戸時代の町火消(いろは48組)は明治維新後、消防組と改称された。明治35年(1902)頃より梯子車や蒸気喞ポ ン プ筒が普及し、東京の大火は減少していった。「消防は昔江戸代よりいろは48組とて名物の一なりしも今は㐧壱区より六区にわかれ警視廰消防分署之配下に属し江戸当の面影を残せし名物の一也とす」と記載あり。出初式に使う、新年の祝い飾りをつけた鳶口の絵あり。「式ノ順序 一整列 二檢閲 三蒸滊喞筒並水管馬車ノ行進 四目錄授與 餘興順序 一消防組員ノ行進 二梯子乘 三着裝競爭 四綱曳競爭 五水管収容競爭 六摸擬火災ニ對スル救助梯 子ノ應用 七蒸滊喞筒ノ放水」と、出初式の式次第について記した紙片が書き写されている 。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「消防組の出初式」より抜粋
※この「消防組による出初式」の解説は、「出初式」の解説の一部です。
「消防組による出初式」を含む「出初式」の記事については、「出初式」の概要を参照ください。
- 消防組による出初式のページへのリンク