水害・旱魃の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)
366年3月、当時前燕国内では水害や旱魃が多発していた。これを受け、慕容恪・慕容評は進み出て、慕容暐へ稽首して「臣らは朽暗であり、経国の器ではありません。過ぎたる荷ではありますが、先帝から抜擢の恩を受け、また陛下からも殊常の遇を蒙りました。軽才な者が猥りに宰相の地位を窃位しても、上は陰陽を調和させる事も、下は庶政を治める事も出来ません。そして水旱(水害・旱魃)により和を失い、彝倫(人が常に守るべき道)の順序が乱れるに至りました。轅(馬車の前方に二本出ている舵となる棒)は弱いにも関わらず任は重く、夕(夜)には慎んでただ憂いております。臣らが聞くところによりますと、王者とは天に則して国を建て、方を弁えて位を但し、司(役人)は必ず才を量り、官(官僚)はただ徳をもって取り立てるものです。台傅の重とは三光を參理するものであり、苟しくも正しい人を得られなく場、則ち霊曜(天)を汚す事になります。『尸禄は殃を貽し、負乗は悔を招く(無能な高官は災いを残し、小人なる君主は後悔を招く)』とは、古来からの常道であり、未だこれに違ったことはありません。旦(周公旦)はその勲聖をもって、近くは二公(呂尚・召公奭)の不興を買い、遠くは管(管叔鮮)・蔡(蔡叔度)の流言を招きました。どうして臣らは縁戚の寵がために才に釣り合わぬ栄を授かり、久しく天官を汚すを可とし、賢路を塵蔽出来ましょうか!ここに中年をもって上奏し、丹款(誠意)を披陳(思いを隠さず述べる事)する次第です。聖恩は遐棄を忍ばず、旧臣として取り立てましたが、何もせずに栄誉を盗んでいては、その過ちは厚くなるばかりです。鼎司の身分のまま罪を待ちましたが、歳余して辰の紀となりました。忝くも宰衡を冒し、ここにおいて七載となります。心に経略を有してはおりますが、その務めを全うする事が出来ておらず、二方(東晋・前秦)に干紀(道理に背く事)させ、その跋扈を未だ裁く事が出来ておりません。同文(国民)の詠には、盛漢を慚する思いが見え、先帝より託付された規に深く乖離しており、陛下の垂拱(天下が平穏に治まっている事)の義にも甚だ違っております。臣らは鋭敏ではありませんが、君子の言を密かに聞きますに、虞丘(春秋時代楚の虞丘子)の避賢の美を敢えて忘れ、すなわち両疏(前漢の疏広・疏受)の知止の分に従います。謹んで太宰・大司馬・太傅・司徒の章綬を返上いたします。ただ昭かなる許しをを垂れん事を」と上表し、輔政の任を降りて邸宅に帰ることを願い出た。だが、慕容暐は「朕が天の助けを得られていないばかりに、早くに乾覆(天からの覆い)は傾いてしまった。先帝が託したのはただ二公(慕容恪・慕容評)のみである。二公は懿親(親しい親族)にして広大な徳を有し、その勲功は魯・衛よりも高く、王室を翼賛(補佐)し、朕躬(私)を輔導してくれている。宣慈(博愛)にして恵和を有し、座して旦を待つように心情は切迫し、夕になっても怠る事は無く、美の極致である。故に外においては群凶を掃い、内においては九土を清める事が出来、四海は晏如(安らかで落ち着いている様)し、政は和して時に適っている。宗廟・社稷の霊すらも、公らの力によるものかもしれない。今、関右(関西)では未だ氐が従わず、江・呉の地では燃え残った虜がおり、まさしく謀略に頼り、六合を混寧させねばならぬ時なのだ。どうして虚己・謙沖なる態度で委任の重を違えてよいだろうか!王はその独善の小なる二疏を割き、公旦(周公旦)の復袞(皇帝の礼服である袞衣を返上するという意味。周公旦が成王の幼い頃は摂政となり、成人すると政権を返上した故事を指している)の大を成すように」と述べ、訴えを退けた。慕容恪・慕容評らはなおも政権を返上する事を請うたので、さらに慕容暐は「そもそも徳を立てる者は必ず善で終える事で名を為し、佐命たる者は功を成す事をもって手柄としたのだ。公らと先帝は洪基(大きな事業の基礎)を開構し、天命を承受し、まさに広く群醜を夷滅し、隆周の跡を再興したのだ。災いが橫流して乾光は輝きを失ってしまい、朕は眇小な身でありながら猥りにも大業を担う事になったが、上は先帝の遺志を成す事も出来ずに二虜(東晋・前秦)を遊魂させており、功は未だ成っておらず、どうして沖退(謙虚に辞退)するべき時であろうか。それに古の王者とは、天下に栄華をもたらす事が出来なければ、四海を担っているかのように憂い、然る後に仁譲の風を吹かせ、比屋(家々)は徳行に富むに至ったのだ。今、道化は未だ純ならず、鯨鯢(悪党)は未だ殄されず、宗社(宗廟・社稷)の重は、朕の身だけではなく、公らが憂う所である。そこで考えるのは、兆庶を寧済して難を靖んじ風を敦くし、美を将来に垂れんとする事だ。さすれば周・漢の事跡に並ぶであろう。至公に違っている事をもって常節を崇飾するべき時ではないのだ」と述べると、2人が提出した辞表を破り捨てた。これにより慕容恪・慕容評らも遂に考えを改めた。 同年5月、慕容暐は依然として旱魃が終わらない状況を憂え、下書して「朕が寡徳であり、政務に臨んでは多くを違えた。亢陽は三時に渡り、光陰の順序は乱れ、農植の辰になっても零雨すら降らなくなった。有司は楽(歌舞音楽)に徹するようにし、大官は菜食をもって常に祭奠を供えるように」と命じた。その後、間もなく大雨が降ったという。
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