歴史・活動
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「人権連盟 (フランス)」の記事における「歴史・活動」の解説
1898年に結成された人権連盟は、1900年代から1920年代にかけて急速に発展し、労働組合運動を中心に様々な運動を牽引し、経済権・社会権の擁護を目的の一つとして、社会正義と労働者の権利の問題を提起した。第一次世界大戦後は、平和維持のためにドイツ(ベルリンに本拠を置く国際人権連盟(ドイツ語版))、ベルギー(フランス語圏の人権連盟(フランス語版)もまたドレフュス事件を受け、1901年にフランスの人権連盟に倣って結成された)など欧州の他国の人権連盟との連携により、1922年に国際人権連盟を設立した。戦間期には特に、戦時中に軍法会議によって不当に有罪とされた軍人の名誉回復のために大規模な運動を行った。1930年代には、ファシズムとの闘いのための団結を呼びかけ、人権連盟本部で左派政党(社会党、急進社会党、共産党)、労働総同盟などの労働組合、反ファシズム知識人監視委員会などの反ファシズム団体の協定が締結され、この結果、1936年に人民戦線が結成された。当時、人権連盟の会長であったヴィクトル・バッシュの呼びかけで、欧州における反ナチズム・反ファシズムを牽引したが、いざ戦争の脅威が迫ると軍備政策などについて内部対立が生じた。ヴィシー政権下で人権連盟の本部が占領され、文書がすべて押収された(ソ連軍が1945年にベルリンでこれらの文書を押収していたため、2000年にようやく回収することができた)。人権連盟の指導者の多くがレジスタンスに参加した。中央委員会委員の3分の1が殺害され、ヴィクトル・バッシュも妻エレーヌとともに逮捕され、処刑された。 戦後は特に脱植民地化、1947年マダガスカル暴動(フランス語版)の弾圧からアルジェリア独立戦争下で1962年のエヴィアン協定まで続いたフランス軍による拷問まで、植民地における人権の抑圧・侵害の問題に取り組んだ。1958年に第五共和政が成立。ダニエル・マイエが人権連盟の会長に就任した。中央委員会にはルネ・カサン、レオ・アモン(フランス語版)、アンドレ・フィリップ(フランス語版)ら、ド・ゴール主義を代表する人物が多かったが、人権連盟では自由権を制限する諸制度を批判し、改革を求める声が高まった。1970年代には軍隊における自由、避妊・人工妊娠中絶の合法化、死刑の廃止、さらに1981年に制定された治安の強化と自由の保護に関する法律(通称「治安・自由法」)の廃止を求める運動を支持した。 1980年代から90年代にかけては移民問題が一つの焦点となった。1945年11月2日の外国人の入国・滞在条件に関する法律、1986年と1993年のパスクワ法(シャルル・パスクワ)と1997年のドブレ法(ジャン・ルイ・ドブレ)により不法滞在者の正規化が厳しく制限されたため、外国人医師の資格認定の延長として、これらの法の廃止と正規化、さらには外国人正規滞在者の地方選挙の選挙権を求めた。同時にまた、経済危機・失業率増加による新たな貧困の問題、特に不当解雇に抗議し、居住の権利、医療を受ける権利を求めて闘った。差別撤廃は人権連盟の重要な使命の一つだが、近年では特に移民問題との関連で、フランスおよび欧州における極右勢力の台頭を懸念し、国際人権連盟とともに人種主義的暴力に対する国際的対応を求めている。また、リヨンに拠点を置く「人権のために一丸となって行動する (AEDH)」、ユーロメッド・ライツ(英語版)、国際人権連盟とともに、欧州連合において人権問題に優先的に取り組むよう働きかけ、2000年に欧州人権擁護協会 (AEDH) が設置された。近年のもう一つの重要な課題は、科学や通信技術の進歩に伴って発生するおそれのある人権侵害に取り組むことである。
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