機屋奉公と主婦労働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 20:58 UTC 版)
ちりめん生産に従事した女性につては丹後ちりめんの女工の項目も参照 明治から昭和中期にかけて、丹後半島の沿岸部や上世屋などの山間部、但馬地方などから、未婚の子女が、加悦谷や峰山、網野などの丹後ちりめんの機屋に奉公し、多くは住み込みで丹後ちりめんの製織に携わった。比較的大規模な、織機30台以上を所有していた織物工場は、1925年(大正14年)の時点で8工場あり、与謝郡に1、中郡に3、竹野郡に4だった。職工の男女比は1:2で女工が多く、従事した仕事は男女で異なり、なかでも「車廻し(撚糸)」は男性の職工、「織手」は女工と決まっていた。女工は「今年来年上機先で、再来年から織手する」と唄われたように、織手になるまでには段階的に技術を習得することが求められた。大正期に加悦で機屋奉公をした女性の記憶によれば、工員は朝6時に起床し、朝食ののち7時から夜9時まで働き、見習いのうちは夜9時以降もランプ磨きなどの仕事があった。近代の紡績業の労働条件は一般に昼夜2交代制の12時間労働で、1カ月の休日は1~2日だった。休憩時間は、線香が燃え尽きるまでの時間で計られた。厳しい製品検査で欠陥が見つかると、賃引といって給与から天引きされた。1897年(明治30年)に加悦町に生まれた詩人であり、自身も13歳から紡織工場で働き、28歳の若さで亡くなった細井和喜蔵は、著書『女工哀史』のなかで、機屋奉公の過酷さについて、「加悦の谷とはだれが言たよ言た地獄谷かや日も射さぬ」と詠っている。 大正時代から昭和にかけては経営者の中には労働環境の改善に目を向ける者も現れ、1917年(大正7年)に株式会社となった加悦の西山機業場では、創業当初は14時間だった労働時間を12時間以内とし、浮いた2時間を工員の教育に充てた。奨励金や賞与の制度を設けて長期就労者を表彰し、株式会社設立に際しては優秀な職工や女工たちにも株を分配し、志気を高めた。伊根の筒川製糸工場でも、夕食後に和裁や華道、礼儀作法などを講師を招いて指導するなど、小学校を卒業してすぐに働きはじめる者が多い女工のための教育機会が設けられていた。峰山の行待織物工場では、5年精勤すると町から表彰され、10年勤めると嫁入り道具一式を用意してもらえたという。 1940年(昭和15年)、丹後織物工業組合は住民の医療福祉の充実を図るため、全額寄付によって財団法人丹後中央病院を設立し、理事長には組合の理事長でもあった古賀精一が就任した。丹後中央病院は現在も京丹後市の医療の中核を担っている。これに先立つ1938年(昭和13年)には、丹後縮緬健康保険組合も組織され、丹後機業就業者の健康保険制度が確立されている。地域一円の織物業者のみで結成した健保組合の成立は、日本初であった。 しかし、昭和40年代の黄金期においても、丹後ちりめん職人の労働環境は過酷で、家内工業で機を織る主婦は、朝7時から100ホンの騒音のなかで1日平均13~14時間機織りに従事した。1965年(昭和40年)の統計によると、丹後地方における妊娠中絶率は全国平均30.2人に対し、丹後町で113.7人、網野町で91.7人、大宮町で80.8人と多く、1968年(昭和43年)の調査でも全国ワースト1~3位を独占した。1962年(昭和37年)から行われた峰山保健所の調査では、1日の労働時間が9~15時間に及ぶ者が57パーセント以上おり、16~18時間働く者も8パーセント以上となっており、長時間労働が機業に従事する婦人の健康を損なっていた事態が明らかとなっている。
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