機屋(奉公先)でのくらし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 03:12 UTC 版)
「丹後ちりめんの女工」の記事における「機屋(奉公先)でのくらし」の解説
ウィキソースにちりめん労働歌の原文があります。 明治時代は電灯もなく、行灯やランプのあかりに頼る生活であった。夏は生糸が乾燥を嫌うため戸を閉めきり、冬は火鉢一つ、それも起した炭火に灰をかぶせて保温時間を持たせるというのが普通であった。そういう中で朝4時半頃に起きて拭き掃除をし、朝食を短時間で済ませ、5時頃には機を織り始めた。全身汗まみれになって重たい手機・足踏み機を操作する重労働であったが、俗に「タバコ」と呼んだ休憩時間は、昼食時は30分から40分で、線香1本が灯っている間とされていた。途中の休憩は朝、昼、夜の3回20分ほどで、夜はだいたい21時から22時頃まで働いていたようである。実働時間は15時間を越すのが普通であったため、女工たちは近所に自宅があっても奉公先に泊まり込んでいた。 女工は、奉公している間は最低限の生活は確保されていた。機屋の食事は、朝は麦と米が1:1で混ざった麦飯に、たくあんや菜っ葉の漬物、味噌汁で、昼食は朝食と同じような物に時々野菜の煮物が加わることがあった。夕食もほとんど同じで、魚などが月に1~2回出た。明治初年までは主食は麦飯ではなく、アラメ飯・大根飯・干葉飯などであった。入浴は5日目ごとの「宵間(ようま、またはよんま)」で、夜業を休む日などに限られていた。 奉公人の雇用期間は半期で、1年間を区切りとした。最初は管巻を習い、1~2年で機先、2〜3年でやっと織り手となり、丹後機業の担い手となった。給金などの待遇は、機屋主人の一存で決められた。盆と正月には数日間の休暇をもらい、半期分の給金と、働きに応じて支給される下駄・ネルの腰巻き・木綿の反物などのいわゆるボーナスをもらって、家に帰った。給金からは住み込みの食費、布団代、雑費などを差し引かれて、半期間分で最高100円から40~50円、機先で20円程度であった。女工の親は、持ち帰った給金を神棚に上げて拝んだという。子守の給金は半期間でせいぜい3~4円、盆、暮れに下駄の1足も付けば上等であった。 女工の雇い入れも盆と正月に行われ、雇い主はその時期になると、土産物を下げて奉公人の家を訪問し、他の業者に引き抜かれないようにした。この風習は昭和に入っても続いた。
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