椿井廣雄とその子孫
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明治15年(1882年)、普賢寺関白と称えられ天福元年5月29日(1233年7月8日)京都府京田辺市普賢寺の地で亡くなり中ノ山(法楽寺)で火葬された近衛基通の墓が、近衛篤麿により村人達が火葬の地と伝承していた場所へ立てられた。 昭和62年(1987年)、防災工事前に発掘調査が行われ、明治15年立てられた近衛基通墓の下から江戸時代後期の物とみられる家形石祠と「號(号+帍)普賢寺前摂政 近衛基通公御廟」と彫られた墓石と自然石碑が出土したが、他に遺物はなく火葬場とは判定されなかった。 家形石祠は陽明文庫所蔵「山城國綴喜郡普賢寺郷上村字元中ノ山法楽山ト云御廟従前之圖」にて描かれているが出土した物と形状が若干異なる。 藤本孝一が椿井文書である可能性を指摘した「興福寺別院山城國綴喜郡観心寺普賢教法寺四至内之圖」に貼られた付箋には実際に出土した物と同じ形状の家形石祠と、自然石碑が描かれていた。 1988年、藤本孝一はその10数年前に京都国立博物館景山春樹が普賢寺の観音寺へ周旋した「興福寺別院山城國綴喜郡観心寺普賢教法寺四至内之圖」(正長元年(*1428年)戊申歳次三月中幹日改正之,普賢寺 学頭本願院覚範大僧都公文僧蔵之坊式部郷公俊 交衆山下中務郷重春 地頭代普賢寺宮内左衛門尉盛邦,天文貮年(*1533年)六月再画。1968年出版の田辺町史に酷似した絵図の写真が付箋と共に撮影されているが付箋の位置は異なる)は「近衛基通公火葬旧蹟」の書き込みがある、明治14年(1881年)写された、“文明14年(1482年)始図、永正6年(1509年)増補、天明8年(1788年)模写”の陽明文庫所蔵「山城国綴喜郡筒城郷惣図(山城國普賢寺郷惣圖)」(惣荘探題 多々良朝臣久盛(花押)/息長宿禰実村(花押),これと相似した「山城国綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣圖」が昭和43年(1968年)『田辺町史』にて掲載されている)を立体画にしたもので、 太田晶二郎の研究で紹介された沼田頼輔の干支と年月日表記についての説「年号-数字-年(歳など)-干支 の形式が古く(上代・中世)、年号-数字-干支-年(歳)は新しい(近世)」に基づき天正五年(1577年)より溯らない近世の形式であると判断できる点と、 山城國普賢寺郷惣圖の方形朱印が「興福官務」であることから椿井文書ではないかという説がある「興福寺官務牒疏」が連想され、その「興福寺官務牒疏」には記載されているが他では見られない「交衆」「朱智荘」「息長」や、日本書紀の地名「筒城」が使用されている事から、断定はできないが、この二図は椿井文書ではないかと鑑定している。 椿井文書とは椿井村の椿井家で「各寺社が椿井家へ自己の寺社の由来について調査を依頼すると,椿井家では「当家伝来処」と称して縁起類を依頼主へ渡す」ものと紹介、中村直勝が近江からも訪ねていったと記録した事や、椿井文書の例として生没年未詳の椿井広雄応龍子の署名がある「飯尾山医王教寺鎮守社祭事紀巻」や椿井応龍子正群政隆の署名がある「高麗大寺圖」の写しや平群龍磨広雄の署名がある「北吉野山神童子縁起」等を紹介、いずれも表記されている年号は古いにもかかわらず「年号-数字-干支-年(歳)」という沼田頼輔の説によると近世の形式の順番で年月日と干支が表記されている。 「推測するに、椿井家では縁起・絵図を作成する際、現代人が偽文書を作るような考えは全くなかったのではなかろうか。『四至内之図』も現地の景観とよく合い、作図するに当り、現地調査や史料採訪を行っていたと思える。江戸時代中期より流行する国学の考証学によっているのではなかろうか。ただし、考証に耽るあまり上代より説き付け、室町時代に至って編纂されたもののように叙述したところに、後世をまどわすものがあった。基通公廟も、幕末に椿井家が田辺町に移り住んだこともあり、現在の地の伝承も椿井文書の関連で考える必要があろう。」としている。「興福寺別院山城國綴喜郡観心寺普賢教法寺四至内之圖」は元々は大西家で所蔵されていた事が判明している。 1989年、山城郷土資料館高橋美久二は「興福寺別院山城國綴喜郡観心寺普賢教法寺四至内之圖」を元に大西館と呼ばれている城館跡の出土物は図に「大西館」「公文所」と書かれている図と酷似していると報告している。
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