椿井文書での観音寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:13 UTC 版)
「観音寺 (京田辺市)」の記事における「椿井文書での観音寺」の解説
椿井政隆は、観音寺を「中世までは普賢寺あるいは普賢教法寺と称していた」ことにし、また「朱智神社をその鎮守である」とし、さらに寺に「息長山」の山号を与えた。そして、「息長」や「朱智」という苗字の侍を祖とする系図を量産した。ここに息長という名詞が登場するのは、椿井政隆が若い頃に近江国膳所藩で活動しており、その時に得た古代の近江国の豪族である息長氏の知識を踏まえているからである。これは、逆に「南山城に息長氏が存在したという伝承が存在しなかった」ことを表している。
※この「椿井文書での観音寺」の解説は、「観音寺 (京田辺市)」の解説の一部です。
「椿井文書での観音寺」を含む「観音寺 (京田辺市)」の記事については、「観音寺 (京田辺市)」の概要を参照ください。
- 椿井文書での観音寺のページへのリンク