椿井政隆説
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馬部は「郷社三之宮神社古文書伝来之記」の椿井権之丞は江戸時代の故実家椿井政隆であるという。「これらの史料を興福寺から持ち出したとされる椿井家は、一九世紀前半に活躍する椿井権之輔政隆なる人物を輩出した家である。(馬部 2005a, p. 107)」「〔「穂谷三之宮大明神年表録」〕〔「穂谷惣社記録」〕が穂谷村の論理で記されていることや、〔「河州交野郡五ヶ郷惣侍中連名帳」〕に近世段階の津田地域の有力農民の苗字が網羅的に掲載されていることなどから、穂谷村の全面的協力があったことも疑いない。三宅氏購入文書はおそらく、穂谷村が「系図屋」ともいえる椿井氏に作成を依頼したのだと思われる(馬部 2005a, p. 108)」という。 椿井政隆は謎多き人物で馬部もまだよくわかっていない部分があるという。椿井政隆の墓を求めて山城町椿井へ行った馬部は椿井政隆の墓は発見していない。ただし馬部は2019年の著書で、1816年から1818年にかけて椿井政隆は近江国蒲生郡をたびたび訪れており、偽文書を各地に残していることを指摘している。 續浪華郷友録では「椿井権之輔」、国立国会図書館デジタルで2017年3月14日から公開されている中田憲信が筆写した『諸系譜』掲載の椿井家系図には椿井権之丞政矩の息子・「椿井権之助政隆」(天保11年12月26日(1841年1月18日)卒)、椿井権之助政隆の息子・椿井萬次郎政福の名前が見られる。 所蔵先未記載の『平群姓正嫡椿井家系図』には「政隆 交名 広雄 道号 懐暎……椿井権之助……明和七庚寅年五月廿五日出生……文政二己卯年六月十一日未刻江州蒲生郡麻生山斬殺大蛇、其長十余許也、……法号 南照院誠誉至頓政隆大徳 天保八年十二月廿六日(※1838年1月21日)卒行年六十八歳」という記述がみえる。 京都府立山城郷土資料館寄託浅田家文書には藤本孝一も言及した椿井文書「仏法最初高麗大寺図」が所蔵されている。 東京大学経済学図書館所蔵浅田家文書には椿井権之丞から浅田五郎兵衛への「弐百匁拝借 あと百匁拝借願 」(史料番号20678,分類番号L/80/7)、浅田金兵衛への「借銀証文切替の件(印形願)」(史料番号22279,分類番号L/961)、浅田金兵衛への「銀子借用願方」(史料番号22284,分類番号L/966)、大西長左衛門への「諸道具質請のため五百目五郎兵衛へ借用方願」(史料番号22286,分類番号L/968)ならびに「頼母子掛銀のこと」(史料番号22334,分類番号L/999/17)、浅田五郎兵衛への「銀子之儀」(史料番号22369,分類番号L/999/52)という記録がみられる。 その目的について、馬部は「お金には困っていなかったはず。ジグソーパズルに熱中するように、歴史の隙間を埋めることをただ楽しんでいたように見える」としている。
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