椿井権之助政隆と平群政隆
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「椿井文書」の記事における「椿井権之助政隆と平群政隆」の解説
椿井政隆が書いたと思われるという「平群姓正嫡椿井家系図」には文政2年(1819年)6月11日30mほどの大蛇を江州蒲生郡麻生山で斬殺したという平群政隆 椿井権之助(明和七庚寅年五月廿五日〈1770年6月18日〉- 天保八酉年十二月廿六日〈1838年(丁酉)1月21日〉)の名前がみられる。 「寛政重脩諸家譜」には藤原頼通の末裔、征夷大将軍藤原頼経の三男・中納言氏房が「大和国平群郡椿井の地に住んだことによってこの地名を称号とし」たという由縁が書かれている。中納言氏房は「諸系譜」では椿井権之助政隆の先祖である。 寛政6年(1794年)「興福寺元衆徒中御門系圖(写)」の行年25歳「椿井右馬助平群懐暎胤政」は椿井政隆の署名で「平群姓正嫡椿井家系図」の生年と一致しているという。 「粟津拾遺集」の著者・椿政隆は椿井政隆であるという。椿井政隆(つばいまさたか)と同じ名前の寛政5年12月21日(1794年1月22日)26歳で家督を継いだ椿井政堯(まさたか)(通名「泰五郎」)が「寛政重脩諸家譜」椿井氏系図内に記されている。なお、この旗本椿井家の当主は文化元年(1804年)の「懐中道しるべ」では泰五郎であるが、文政10年(1827)年の「国字分名集」では勇次郎に変わっている。
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