椿井文書に関する記録
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明治23年(1890年)、滋賀県内の宮司家に生まれた中村直勝は「次の点には触れずに置こうと、いろいろと勘考したのであるが、やはり、後世を誤る倶れがあるから、短言しておくこととする」と、明治30年(1897年)前後頃の京都府南部木津町の椿井家、明治35年(1902年)前後頃の木津の今井家での由緒書の製造販売の様子について詳細に記している。 明治4年(1871年)頃から政府は政祭一致を目指し神職の人事権を掌握し社格の制度を設け、主に無社格となった神社を中心に廃止、統合を進めた。各神社は社歴調査に努めなければならなくなり「明治三十年前後-私の小学校時代のこと-(中略)せいぜいが小学校を卒業した程度の地方神職に、そうした歴史の調査ができるはずはなく比較的上等であった親父でさえ五里霧中で」、由緒を求めて国文学の教授や和歌の師匠へ訪問してまで苦心する。「そのとき南山城の木津に椿井(つばい)という旧家があって、そこに行けば、どんな神社の縁起書でもあるという噂が立」ち「地方の神社に対して、その社歴でも調査せしめたものか、滋賀県下の神職連は、寄ると触ると、自分の奉仕しておる神社の由緒調査について、苦い談を交わしておった」という状況下でも「〔中村〕の〔父〕の奉仕した神社は貧乏であったから、木津まで〔縁起書〕を探しに行かなかったが」、多くの神職たちが木津を訪れたという。地方の神社の神職達や寺社へ椿井家と今井家は大量に所蔵している中から探し出すという建前で「時には、今迄知れておる社歴の一部を、彼等に語らせ」注文主の財産状況を見定め上等下等の由緒、縁起、境内図等を製造販売したという。販売された椿井文書について「しかし内容は万更、虚構でないこともある。興福寺東大寺春日社等の古記録が、種本ではないか」と中村は評している。
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