東機関における活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 09:26 UTC 版)
「アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ」の記事における「東機関における活動」の解説
1941年12月の真珠湾攻撃に伴い、太平洋戦争が勃発した。日本は、連合国側に関する情報を切望していたものの、アメリカ国内の日本とドイツによるスパイ網は壊滅させられており、特に日本にとってアメリカにおける情報提供者を獲得する事は、火急の課題だった。 そんな中、カナリスが日米開戦の数日後、フランコ総統へ向けて「アメリカにおける日本側のスパイ網構築には、ベラスコが適任である」と進言した事がきっかけで、ベラスコはスニェール外相から帰国命令が下された。帰国後まもなく、ベラスコは日本公使館の須磨弥吉郎公使と三浦文夫一等書記官らとの接触を開始し、スニェールによる日本側への強い推薦もあって、1942年初頭から「東機関」における諜報活動に従事する様になった。 ミッドウェー海戦以降、アメリカ国内に潜伏したベラスコの配下達は、フォード社による戦闘機の生産能率が、飛躍的に向上している事をはじめ、南太平洋における米軍による反攻作戦、山本五十六機の撃墜計画といった重大な情報を、時には教会の神父に変装して、出征する海兵隊の兵士による懺悔から引き出すなどして、収集する成果を挙げた。情報を受けたベラスコは、それらを三浦へ伝達し、東京へ打電されるという経緯を辿った。 しかし、ベラスコ達によって日本へもたらされた数々の情報は、その殆どが戦略策定に活かされる事はなかった。その一つが、当時機密中の機密であった原子爆弾に関する情報だった。ベラスコは戦後、広島・長崎に投下される3年以上前の段階で、「化学研究所での爆発の際、広範に1000度以上の高温を発する新型爆弾を開発した」との情報を日本へ報告したにも関わらず、黙殺されたという旨の証言をしている。 また、1942年夏にベラスコ達が掴んだ 「14隻の船団が、ボンベイに向けサンフランシスコを出発。戦闘機・爆撃機を満載」(7月27日に打電)「ソロモン諸島に上陸した部隊が、1ヶ月持ち堪えられるならば、米軍は強力な増援部隊を派遣するであろう」(8月14日〃)「米軍は、太平洋の島々の占領計画を策定。海軍は、当面戦力を太平洋方面に集中する方針」(8月31日〃) といった情報も、「米軍の反攻は、1943年中期以降だ」という、開戦当初からの情報判断に固執した参謀本部によって握り潰され、この事がガダルカナル島の戦いにおける惨敗の大きな原因となった。 後にベラスコは、NHKによるインタビューの中で 、 「情報員に過ぎない自分でも、近々大規模なアメリカ側の反攻が、中部太平洋地域において行われるという事が解った。でもどうしてその情報を、日本は取り上げなかったのか。」 「日本は情報の使い方が下手だ。利用の仕方を知らなかったか、それとも情報を利用するのが嫌いだったのだろう。情報がどんなに大切かを知っている人もいただろうに。」 と語っている。 1944年に入って、アメリカは日本によるパープル暗号を解読した事によって、マドリードからの東機関による情報を把握する様になった。同年7月には、上述した原爆に関する情報の収拾を担当していたベラスコの配下である青年スパイが、ラスベガスでCIAの工作員と思われる人物に射殺された事をきっかけに、東機関の実態が本格的に把握される様になった。ベラスコも、自身がアメリカから暗殺の標的にされた事を察した事によって、ドイツへ亡命し、これに伴う形で東機関は、事実上の壊滅に追い込まれた。
※この「東機関における活動」の解説は、「アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ」の解説の一部です。
「東機関における活動」を含む「アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ」の記事については、「アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ」の概要を参照ください。
- 東機関における活動のページへのリンク