来歴についての疑問点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 10:01 UTC 版)
「カール・ゴッチ」の記事における「来歴についての疑問点」の解説
ゴッチの生年月日についてはいくつかの説が伝えられていたが、2000年代になってからは「1924年8月3日生まれ」でほぼ統一されている。 「ドイツ・ハンブルク出身」とされているが、「ベルギーのアントウェルペンまたはブリュッセルの生まれで、後にハンブルクへ移住した」とも言われている。また、「父はハンガリー人(マジャル人)、母はドイツ人」「"Gotch"というリングネームは母方の姓に由来する」とも「オランダ系でドイツ人の血は引いていない」とも言われている。このため、「ゴッチは(かつて第二次世界大戦においてアメリカと戦った「ヒール」としての)ギミックとしてドイツ人を演じているだけではないか」という意見もあるが、一方で、「ゴッチはナチスについて肯定的な発言を本気でしている」とも言われている。 ナチスについてはG SPIRITS Vol.46による実娘ジェニン・ソラナカのインタビューによると、ゴッチは父親のエドワードと1943年と1944年と2回にわたって強制収容所に収監されている。父親のエドワードがナチス反対派で、ビラやチラシを配っていたという。何度も逃げようとしたが、その都度捕まり酷い罰を与えられたといい、ろくに食事も与えられず、とにかくいつもお腹をすかせていたという。収容所では鉄道のレールを敷く仕事をやらされていたという。そして本誌では、ドイツ人としたのは、ハンガリーやベルギー、オランダといった国ではアメリカ人らには馴染みが無かったからだとしている他、本名はKrel Alfons Ceclie Istaz カレル・アルフォンス・セシル・イスタスで、兄弟はいない一人息子、夫人のエラは水泳の選手だったといい、ふだんの言語はフラマン語を使用していたという。ゴッチの父エドワードがハンガリー系で、ゴッチの母ヨハナ、旧姓ファン・ヘイステレンがオランダ系。母方エラのデルース家は生粋のベルギー人とのこと。ゴッチが結婚したのは1949年9月で、翌年3月に娘ジェニンが生まれている。 ザ・ベストマガジン9月号増刊平成5年9月発行プロレス王国の本人のインタビューによると、生まれたのは確かにアントワープであるが両親がドイツ国籍で幼少期にハンブルクに移り住み、祖父がハンガリー人で1/4ハンガリーの血が流れているという。父親が商船士、9歳の時に近所のジムで、元グレコローマンのオリンピック王者であるフリッツ・ヤンセンの門下生となったという。13歳の時に鉄製の船具を作る鍛冶屋で働き、並行してトレーニングに励んでいた。ボクシングを1年間練習しウエイトリフティングのジムにも足を運んでいたという。なお、リングネームをゴッチに改名したのは1970年で,母方のファミリーネームからとしている。同雑誌の記述による1945年ナショナル王者をへて1952年にヘルシンキオリンピック出場といった経緯自体実に曖昧で,ドイツ国籍であったがベルギー代表として出場したとしている。 ゴッチのアメリカ進出以前の経歴については、出典により異なった情報が伝えられている点が多い。例えば、以下のような経歴が紹介されたことがある。ナチス統治下のドイツにおいて、9歳よりレスリングを始める。 16歳でアマチュアレスリング全ドイツ・ヘビー級王座を獲得。 ヘルシンキオリンピック(1952年)のグレコローマンスタイルレスリングに出場、銀メダルを獲得。 1954年より2年間、ビリー・ライレージムでランカシャーレスリングを練習する。 1956年ヨーロッパでプロレスデビュー。 ゴッチが初来日の時に「クライザー」と名乗っていたのは、元々来日する予定であったクライザーというプロレスラーが来日できなくなり、代役として来日したためであるという「ゴッチ代役説」が伝えられている。この説では、ゴッチが「クラウザー」という類似したリングネームを使っていた事実はなかった(もしくは単なる偶然)とされる。また、代役としてゴッチを推薦したのは、ビル・ミラーとも言われている。この説とは別に、「クライザー」というプロレスラーが来日するはずが、なんらかの手違いにより「クラウザー」ことゴッチが来日してしまったという「ゴッチ人違い説」も伝えられている。元々来日する予定であったプロレスラーは、カロル・カルミコフのリングネームも使っていたカロル・クラウザー(Karol Krauser)とも言われている。 1962年8月31日にオハイオ州コロンバスのフェアグラウンズ・コロシアムにおいて、ジョニー・バレンドと対戦予定であったNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースが「控え室でカール・ゴッチとビル・ミラーに襲われて負傷した」と訴え、その日の試合を欠場した(公演自体は行われ、ロジャースの代役としてジャイアント馬場がバレンドと対戦したが、入場料の一部は払い戻しとなった)。ゴッチとミラーは警察署に出頭して逮捕され、保釈金を支払って釈放された。ロジャースが「急に閉じられたドアに手を挟まれて負傷した」と主張したのに対し、ゴッチとミラーは「平手で一発ずつロジャースの顔を殴っただけで、負傷させるつもりはなかった」と反論した。ゴッチとミラーは「ロジャースには次にオハイオを訪れた時にわたしたちの挑戦を受けることを要求したのに、負傷させては意味がない」「わたしたちがロジャースを負傷させるつもりであれば、手を負傷した程度で終わるはずがない」とロジャースを負傷させたことを否定したが、ロジャースは複数のプロモーター、プロレスラーから恨まれていたため、何者かがゴッチとミラーに依頼してロジャースを負傷させたという憶測が絶えなかった。なお、ロジャースはしばらくして試合に復帰したが、1963年1月24日にルー・テーズに敗れてNWA世界ヘビー級王座を奪われた。一方、ゴッチはこの事件の2週間後にオハイオ版AWA世界ヘビー級王座を獲得すると、その後はテーズと互いの王座を懸けて対戦するなど、アメリカにおける全盛期を迎えた。この逸話はかつては梶原一騎などによって「ロジャースは人気ばかりで実力がなかったからゴッチに控室でKOされた男として最低の恥をかかされた(『プロレススーパースター列伝』でのリック・フレアーの台詞)」などと誇張して伝えられ、ロジャースが未来日だったこともあって日本でのある時期のロジャースの印象を一部で低下させた。
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