本事件のその後
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フェスティナ・ロータス ブルーノ・ルッセル 本事件でルッセルはUCIから監督のライセンスを剥奪された。後に解除されて2014年にはメキシコナショナルチームの監督に就任した。 2000年10月に禁止物質の密輸、違法な流通によるドーピング製品の使用と扇動、および違法物質の輸入、保管、取得の共謀で起訴された。ルッセルはこれを認め、執行猶予付きの1年の刑と50,000フランの罰金を科された。 また、2007年にはフェスティナ時代の組織的な脱税事件で逮捕されている。 チームスタッフ 本事件の発端となったフートを含めて3名が逮捕され、それぞれ執行猶予と罰金が科された。 また3人とは別に、ルッセルと同じタイミングでチームドクター1名が起訴されたが、本人の健康上の理由で告訴は取り下げられた (裁判の翌年の1月に死去) 。 所属ライダー 大会期間中に出頭した際に採られたサンプルの内、ローラン・ブロシャール、クリストフ・モロー、ディディエ・ラースの物から禁止物質 (いずれも微量のアンフェタミン) が陽性となった。更に3名とも合成EPOを使用した事を認めた。 これを受けてフランス車連はこの3名を6か月間の資格停止処分とした。 リシャール・ビランク フェスティナに在籍した他のライダーが次々とドーピングの事実を認め、処分を受けている中でパスカル・エルベと共に「自分は無実であり、この疑惑は嵌められたものである」と最後まで潔白を主張し続けた。この影響で翌年のツールにビランク、エルベの両名は参加する事を主催者側から拒否された。 しかし、2000年10月にドーピングやマスキング物質の管理を他人に扇動し、麻薬の輸入に加担した罪で告発された際にエルベと共にこれらが事実であることを認めた。 これを受けてスイス車連はビランクに9ヶ月間の資格停止処分と罰金4000スイスフランを科した。 これで1998年にフェスティナ所属のライダーとしてツールに出走した9名全員がドーピングに関与したことを認めた。 フェスティナ以外のチーム・選手 ロドルフォ・マッシ パフォーマンス向上薬物所持で警察に収監されたマッシは史上初のドーピング容疑で逮捕されたライダーとなった。 先述の通り収監された為にレース活動が出来ない予定だったが、早々に不起訴処分となり釈放された。その為、同年のクラシカ・サンセバスチャン (DNF) とブエルタ・ア・エスパーニャ (第10ステージDNS) にも出走している。 しかし、翌1999年にイタリアオリンピック委員会は6ヶ月間の資格停止処分を科した。彼自身は処分終了後、リクイガスなど数チームを渡り歩きながら2003年まで現役を続けたが、目立った成績を残す事はなかった。 TVM・ファームフリッツ 監督のプリームの他、チームドクターとスタッフ1名の計3名がそれぞれ執行猶予と罰金を科された。 嫌疑が晴れていない事を理由に翌年のツールに招待されなかった。 オンセ・ドイチェバンク 1998年12月にチームドクターが禁止物質の輸入でフランスの司法当局に起訴された。 この影響で翌年のツールに監督のマノロ・セーズと起訴されたドクターが帯同することが許可されなかった。 ラ・フランセーズ・デ・ジュー スタッフ1人がツール終了後に逮捕され、執行猶予と罰金を科された。 その他 本事件に関わった薬剤師2名が起訴され、それぞれ罰金を科された ドーピングの取り締まり 本事件を受けて翌1999年にそれまでのドーピングの取り締まりを主導してきた国際オリンピック委員会 (IOC)の主催で「スポーツにおけるドーピングに関する世界会議」が行われた。 この会議で採択された「ローザンヌ宣言」に基づき、1999年11月にドーピングの取り締まりを行う第三者機関として世界アンチ・ドーピング機関 (WADA) が設立された。 UCIはそれまでの独自路線を改め、WADAのガイドラインに従って検査を行うこととなった。また、罰則もそれまでの各国の車連の裁量に委ねられていたものから、一度の陽性で選手は過失の程度に合わせて最長で4年、最短で1年の資格停止処分が科されることとなった。また、ドーピングに関与した者 (チームドクターやスタッフ) は最短でも4年間の職務停止処分、最悪の場合は永久追放処分となるといった従来と比べてより厳しい処分が科されることとなった。 尚、現在では同一チームに在籍した選手やチーム関係者が12ヶ月の間に2度以上アンチドーピング規則の禁止事項に抵触した場合 (選手が2名以上ドーピング検査で陽性が確定するなど) 、UCIによってそのチームに対して15日以上且つ45日未満の資格停止処分が科される。しかし、チームに対する罰則が設けられたのは2015年からとチーム主導の組織的ドーピング事件である本事件が発覚してから15年以上も後のことである。 ツール・ド・フランスとロードレース業界 本事件が "Tour of Shame" と報道されて以降、ツール・ド・フランス、そしてサイクルロードレース業界はダーティーなイメージとなってしまった。この状況を救うヒーローとなった (と思われた) のがガンから復活し、この翌年から史上初のツール・ド・フランス7連覇 (後にドーピング発覚により剥奪) を達成したランス・アームストロングである。 因みにランスはガンから復帰して最初のグランツールとして1998年のツールに出場予定だったが、コンディション不良の為にスキップしてブエルタ・ア・エスパーニャに出場した。そしてステージ最高順位は個人TTでの3位、総合は4位で終えている。
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