朝鮮戦争の影響と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 09:35 UTC 版)
「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の記事における「朝鮮戦争の影響と復興」の解説
朝鮮戦争は1953年7月に休戦となった。3年余り続いた戦争によって朝鮮半島のほぼ全域が戦場となったため、北朝鮮の産業基盤は深刻な被害を蒙った。1953年の工業生産は1949年の64パーセントに低下したが、戦争によって肥大化した軍需産業部門以外は軒並み2割程度に落ち込んでいた。また北朝鮮全土の多くの耕地は戦災を蒙り、所有者が不在となって耕作できなくなった農地も多く、耕地全体の四分の一の農地が耕作困難となっていた。そして戦争によって数十万人以上という多くの人命が失われ、そのうえ北朝鮮側から韓国側への移住者も多数生じたため、朝鮮戦争後の北朝鮮では労働力の不足も深刻であった。 朝鮮戦争は北朝鮮経済に対して直接的影響ばかりでなく、間接的にも大きな影響をもたらした。まず戦費の多くがソ連からの借り入れによってまかなわれたため、その返済を行わなければならなかった。そして一番の大きな影響は朝鮮半島の分断が固定化し、北朝鮮は常に韓国側と対峙する立場に立たされたことである。韓国との軍事的緊張下に置かれた北朝鮮は常に軍事力の強化に努める必要に迫られ、現在に至るまで軍事関連に多額の出費を継続することになった。また朝鮮戦争時に軍需物資不足に悩まされた経験は、軍需産業の基盤となる重工業偏重の産業政策を採用する一因となった。このように南北分断は北朝鮮経済のゆがみの大きな要因を作ることになった。 朝鮮戦争が終結した翌年の1954年から1956年にかけて、北朝鮮は戦後復興3カ年計画を行った。この計画では重工業をまず優先し、同時に農業と軽工業の発展を図り、農業部門については個人農経営から農民を協同組合に加入させる社会主義的集団化を進めることとした。 鉱工業に関しては、朝鮮半島北部には豊富な地下資源が埋蔵されており重工業化に適していたことや、先述の軍需工業の基盤としての重工業を重視する必要性などから重工業優先の経済政策を採ることが決定された。戦争終結直後で北朝鮮住民が生活に苦しんでいる状況下、消費財を中心とした軽工業ではなく重工業優先の政策を採ることについて強い反対意見が出されたが、金日成らは反対者を排除し、重工業偏重の鉱工業政策が遂行された。 農業の集団化については、朝鮮戦争によって労働力や農業に必要な物資が不足している状況下、個人経営では農業のすみやかな復興に限界があったという必要性はあったが、他の社会主義国では農業用機械を中心とした農業生産手段が十分に行き渡った状況が農業集団化の前提とされたのに比べて、当時の北朝鮮の状況は農業生産手段が絶対的に不足しており、農業集団化にも反対意見が噴出した。農業集団化のスピードは他の社会主義国と比較しても極めて早く、集団化開始後3年の1956年には80パーセントを越え、1958年には100パーセント集団化を達成した。 朝鮮戦争からの復興期、北朝鮮経済の特徴となる二つの要素が明らかとなってきた。まず第一は「自立的民族経済建設路線」である。これは外国に頼らずに生産手段と消費財を自力で賄うことを目指した路線で、朝鮮戦争時に全ての資材を外国からの輸入に頼っていたため、開戦後輸入がストップするとともに兵器生産が止まってしまったことの反省によるものであった。この自立路線は中ソ対立などの外的要因や金日成の対立者の排除を通して強化され、やがて主体思想へと進化していくことになる。 もう一方の要素は、自立的民族経済の確立とは矛盾する巨額の援助によって北朝鮮経済を支える状況が作り出されたことである。朝鮮戦争で大きな被害を蒙った北朝鮮は、ソ連や東欧諸国そして中国からの援助を受けつつ重工業中心の産業復興を進めていくことになった。援助の効果もあって3カ年計画は順調に遂行され、計画を上回る速さで北朝鮮は戦後復興を果たしていく。しかしソ連や東欧諸国からの援助は1989年の社会主義圏の崩壊と1991年のソビエト連邦の崩壊まで続き、中国からの援助は今もって北朝鮮経済を支える柱の一つである。また在日朝鮮人の帰国運動によって帰国した人々に対する日本の親族からの援助や、1990年代半ば以降行われている西側諸国からの食糧援助等が北朝鮮を支えた事実は、外部からの援助に頼る北朝鮮経済の実情を表しているといえる。
※この「朝鮮戦争の影響と復興」の解説は、「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の解説の一部です。
「朝鮮戦争の影響と復興」を含む「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の記事については、「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の概要を参照ください。
- 朝鮮戦争の影響と復興のページへのリンク