朝鮮戦争休戦以後
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1954年10月14日には「韓国の生徒達へ日本帝国主義の侵略性とその韓国への悪意を教えるよう命令した。これは韓国経済を独占を望む日本の陰謀への対抗措置で教師・大学教授に命じて生徒を激動させようとするもの」と発表させた 1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。しかし、生涯大統領を望む李承晩及び与党自由党は「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。11月27日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、つまり136票が必要だった。よってわずか1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。しかし、李派の国会議長は、「135.33票とは社会通念上の概念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えている」として改憲案の可決を宣言した(四捨五入改憲)。 1956年、80歳を過ぎた李が三選を狙った大統領選挙に際して、民国党を中心とする野党勢力は「やってられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、「民主党」を結成した。一方、自由党は「替えても変わらにゃ、長老(李大統領)がマシ」というスローガンで対抗した。 民主党は大統領候補に申翼煕、副大統領候補に張勉、自由党は大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬という布陣だった。 選挙直前の5月5日、民主党の大統領候補・申翼煕が遊説に向う途中の列車の中で脳溢血で倒れ、急死するというトラブルがあり、民主党は副大統領候補だけの選挙を余儀なくされた。官憲の介入もあり、選挙の結果、李承晩は大統領三選を果たしたが、副大統領の李起鵬は民主党の張勉に敗北。大統領が与党、副大統領が野党という一種のねじれ現象が起きた(1956年大韓民国大統領選挙を参照)。 高齢の李承晩に万一の事態が起これば副大統領の民主党の張勉が繰り上げて大統領になる上に、次の大統領選で李が当選するかさえも怪しくなり自由党は危機感を抱いた。同年9月28日には退役軍人による張勉副大統領暗殺未遂事件を起こし、1959年4月30日には張勉系の野党紙『京郷新聞』を廃刊処分させ、同年7月には前年に進歩党事件で逮捕した曺奉岩・進歩党党首を処刑するなど、李は徹底的な政敵潰しを行った。 李は25歳年下のフランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、遠縁にあたる側近で副大統領候補でもあった李起鵬の長男・李康石(イ・ガンソク)を子に迎えた。康石は1957年にソウル大学校に入学をするが、その入学が特恵措置によるものであったことから騒動となった。しかし承晩の独裁下では批判が出来ようもなく、案の定「独裁者の息子」はたびたび問題を起こし、朝鮮日報社『韓国現代史119事件』ではこう記されている。 「 1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。 」 この風潮に便乗する格好で、1957年8月末に姜聖柄という22歳の男が康石になりすまし、「父から密命で公務員の不正を調べている」と地方の道知事や警察署長などを騙し、厚い接待を受けたり金品を要求するという事件を起こした。事件発覚後、慶州知事の「貴いお方が一人でいらっしゃったのだから」という発言が取り沙汰され、かねてからの康石への無法への反感や政権への不満感から「貴いお方」という言い回しが流行語となった。 1959年12月4日には、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の南日外相の呼び掛けに応じた日本政府による在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために、李承晩政権は密かに日本に民団所属の在日韓国人と協力して、「北韓帰還阻止工作員」を送り込んで新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こした。
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