朝鮮戦争まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 17:42 UTC 版)
1932年、日本統治時代の咸鏡南道・新興郡で生を受ける。創氏改名後はオカムラ・キヨシ(Okamura Kyoshi)の日本名を名乗った。父は日本企業で働いていたため、幼少期の生活環境は比較的恵まれていた。当時、学校の授業は全て日本語で行われていたため、盧の日本語の読み書きは完璧なものだった。1944年に特攻隊員の募集が始まると、12歳の盧はこれに志願したいと家族に打ち明けた。しかし、父の強い反対によって断念する。さらに父と話し合う中で、アメリカが戦争に勝利することを確信し、いずれ渡米して豊かな生活を送るという夢を抱くようになる。終戦後の1948年、盧は北朝鮮の指導者となる金日成の演説を初めて目にした。盧は演説自体には強い感銘を受けたとしながらも、アメリカに憧れていたこともあり、共産主義は当時から軽蔑の対象であったと語っている。しかし、周囲で独立への熱狂が高まる中、盧は内心を押し隠し、表面上は模範的な共産主義者として振る舞うことを選んだ。 1949年に海軍軍官学校へ入学する。その頃から既に脱北を企図していたという。海軍軍官学校での生活は非常に厳しいもので、休暇は皆無、なおかつ基地を離れることは認められず、卒業までは誰かの訪問を受けることも認められていなかった。ヒゲを生やすことは厳禁とされていたものの、カミソリが支給されなかったため、候補生らはヒゲを1本ずつ指で引き抜くしかなかった。兵舎や教室は暖房が不十分で、冬には非常に冷え込み、蛇口からは水しか出なかった。食料も常に不足していた。ある候補生は除隊の申し出を行ったが、拒否されたばかりか、次に同様の申し出を行えば投獄するという警告が与えられたという。盧は後に海軍軍官学校での生活を振り返り、「刑務所のようだった」と述べている。 朝鮮戦争が始まると、候補生らの生活環境は一層と悪化した。盧を含む150人ほどの候補生は、未整備の鉄道トンネル内に移動し、歩兵訓練や反米政治集会に参加することとなった。数日後、軍医らがトンネルを訪れ、100人ほどの候補生を選抜した。彼らは何らかの秘密計画に参加するとされており、盧はパイロットの選抜であろうと推測した。その後の身体検査と試験の後、50人の候補生が中国の飛行場へと鉄道で送り込まれ、改めてパイロットとして選抜された旨が伝えられた。1950年には空軍に入隊し、中国国内でのYak-18練習機、Yak-11練習機、Yak-17戦闘機を用いた訓練を経てMiG-15戦闘機のパイロットとなった。しかし、パイロットの生活も厳しいものだった。依然として休暇はほとんど与えられなかったし、公の場でアルコールを口にすることも禁止されていた。また、若いパイロットは多くが独身だったが、女性との交際は認められなかった。韓国が若い女性をスパイとして送り込んでいると言われていたためである。訓練終了後、彼らは第1飛行師団第2連隊に配属された。同連隊は当時北朝鮮で唯一空襲の被害を受けていなかった義州の飛行場に配置されていた。1951年11月8日、19歳の盧は初めての実戦に参加した。その後、空襲の激化により義州飛行場が機能を喪失すると、連隊は中国の安東省の飛行場に移った。1952年11月、盧の飛行隊に新型のMiG-15bis戦闘機が配備された。 1953年の春、兵站部の少佐で熱狂的な共産主義者でもあった叔父から、母が爆撃で死亡した旨を伝えられた。ただし、実際には生存しており、興南区域から避難する際に足を骨折した後、アメリカ海軍によって救出されていた。 彼は将校として金日成主席と3度対面したことがあり、また後に空軍総司令官や総参謀部長、国防委員会副委員長などを歴任した呉克烈は同じ飛行隊に勤務した親友の1人であった。
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