公認競馬の始まり(朝鮮競馬令施行以前)
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「朝鮮の競馬」の記事における「公認競馬の始まり(朝鮮競馬令施行以前)」の解説
1921年(大正10年)内地の競馬倶楽部と同様に馬匹改良と馬事思想普及を目的とする競馬法人朝鮮競馬倶楽部設立の申請がなされ、施設や組織内容を見て1922年(大正11年)朝鮮総督府はこれを認めた。場所は京城である。朝鮮競馬倶楽部は1922年競馬を開始し、1923年春には馬券の発売を開始している。さらに1924年(大正13年)には平壌の平南レース倶楽部、1926年(大正15年)大邱競馬倶楽部、1927年(昭和2年)釜山競馬倶楽部、1928年(昭和3年)新義州の国境競馬倶楽部、同年群山競馬倶楽部が認可を得ている。ただし大邱競馬倶楽部は1926年に認可を得ているが競馬の開催は1929年からである。 各競馬倶楽部は内地の地方競馬と同じく「懸賞富籤類似其ノ他投票募集等ノ取締ニ関スル規定」に準じて1枚2円で馬券を発売している(国境競馬倶楽部のみは1枚3円)。馬券の控除率(主催者取り分)は20%である。昭和5年の各倶楽部のデータが残っているので記載する。 初期の朝鮮競馬の入場者数、売上の推移年度倶楽部数入場者数馬券売上高開催地1925年(大正14年) 2 37,575人 170,208円 京城、平壌 1926年(大正15年) 2 51,109人 256,734円 京城、平壌 1927年(昭和2年) 3 65,657人 635,326円 京城、平壌、釜山 1928年(昭和3年) 5 224,793人 1,283,988円 京城、平壌、釜山、新義州、群山 1929年(昭和4年) 6 241,160人 1,878,860円 京城、平壌、釜山、新義州、群山、大邱 1930年(昭和5年) 6 214,331人 1,658,799円 京城、平壌、釜山、新義州、群山、大邱 1930年(昭和5年)の入場者数、売り上げが前年より減っているのはこの年の天候不順で開催日の降雨が多かったため。 昭和5年の各競馬倶楽部の売上競馬倶楽部名所在地馬券発売枚数馬券売上高朝鮮競馬倶楽部 京城(ソウル) 372,557枚 745,114円 平南レース倶楽部 平壌 86,952枚 173,904円 大邱競馬倶楽部 大邱 111,547枚 223,096円 釜山競馬倶楽部 釜山 186,280枚 372,560円 国境競馬倶楽部 新義州 14,757枚 44,271円 群山競馬倶楽部 群山 49,677枚 99,354円 合計 821,770枚 1,658,299円 以上のように1930年(昭和5年)の天候不順の影響を除くと朝鮮の競馬が順調に発展し、京城(ソウル)の売り上げが全体の半分近くを占めていることがわかる。 1928年には京城の新設洞の競馬場が改修され本格的な競馬場になっている。この新設洞競馬場は朝鮮競馬の中心となり、1945年に日本人が引き上げた後も施設は残り朝鮮戦争まで朝鮮人による競馬が行われている 。
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