公認競馬施行体の乱立と競馬排斥運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 13:57 UTC 版)
「競馬の歴史 (日本)」の記事における「公認競馬施行体の乱立と競馬排斥運動」の解説
東京競馬会の成功に続けと日本各地で公認競馬を開催しようとする動きが起こり、社団法人の設立申請が相次いだ。安田をはじめとする東京競馬会の役員は準備不足による混乱を危惧し認可は慎重に行うように進言したが認可を乱発し、これを受けて翌1907年(明治40年)と1908年(明治41年)には札幌、函館、川崎、板橋、目黒、松戸、藤枝、新潟、京都、鳴尾(鳴尾東浜と鳴尾西浜の2つ)、小倉、宮崎に競馬施行を目的とする社団法人が相次いで誕生した(なお栃木県小山にも公認が与えられたが、直後に馬券が禁止されて開催実現はしなかった。詳細は後述)。先行する横浜、池上にこれらを加えて1908年(明治41年)には全国で15か所の競馬場で競馬が行われた。政府は馬券発売による風紀の乱れを心配し、入場料、馬券とも高額に設定させた。高額な入場料を払えるのは上流階級に限るだろうししたがって競馬場は上品な場になるだろうと考えたのである。 しかしそうした団体では競馬運営を熟知した者が不足し、一部では営利主義に走るものも出て馬券の配当金の計算がおかしいとか八百長といった騒動が連日頻発し、紳士淑女を集め上品な場になるはずの競馬はあっという間にやくざ者が出入りする柄の悪い場所へと成り下がった。そのため、競馬排斥論が世論の中心となった。
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