服喪時代
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「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「服喪時代」の解説
ヴィクトリアの悲しみは深く、その後彼女は10年以上にわたって隠遁生活をはじめた。日々をワイト島のオズボーン・ハウスやスコットランドのバルモラル城などで過ごしてロンドンには滅多に近寄らなくなった。国の儀式にも出席せず、社交界に顔を出すこともなくなった。たまに人に姿を見せる時には常に喪服姿であった。自分だけではなく侍従や女官、奉公人に至るまで宮殿で働く者全員に喪服の着用を命じていた。ヴィクトリアによればアルバートを失った直後の3年間は死を希望する心境にさえなっていたという。 政治家たちにとってはヴィクトリアがこれまで散々行ってきた政治への介入を止めさせる絶好のチャンスであり、「喪」に服したいという彼女の意思を支持した。だがヴィクトリアは「喪」に服することに全力をあげるために政権交代を阻止しようとするようになった。アルバート崩御直後の頃、パーマストン子爵の政権運営が危なくなっていた時期だったが、ヴィクトリアは野党党首ダービー伯爵に対して「今の自分は政権交代などという心労に耐えられる状態ではない。もし貴下が政権打倒を目指しているのならば、それは私の命を奪うか、精神を狂わせる行為である。」という脅迫的な手紙を送っている。これを見たダービー伯爵は思わず「女王陛下がそんなに奴らをお気に入りだったとは驚いたな」と述べたという。 1862年に再びロンドン万博が開催されたが、彼女はアルバートのことを思いだして居た堪れなくなるとして欠席した。 国民ははじめヴィクトリアに同情する人が多かったが、やがていつまでも公務に出席しない彼女を批判する論調が増えていった。特にヴィクトリアが三女アリスの結婚式をまるで葬式のようにやらせたのを機に女王批判が強まっていった。保守的な『タイムズ』紙さえも「女王の喪はいつになったら開けるのか」「女王には公人としての義務があり、それを無視するのであれば君主制は失われるだろう」という忠告の論調を載せている。女王のあまりの引きこもりぶりに「女王がいなくても国は問題なくやっていけている。王室を養う税金は無駄」などとして共和主義者が台頭し始める始末となった。 女王が君主としての公務を行えないなら皇太子バーティが代行するのが普通であるが、ヴィクトリアはそれも許さなかった。この「出来そこない」の息子のせいでアルバートが過労になったと考えていたヴィクトリアはバーティには重要なことは何も任せないつもりでいた。 引きこもってばかりいると身体に悪いという侍医の薦めでヴィクトリアは乗馬や馬車で出かけるようになり、その関係でバルモラル城でのアルバートの馬係であったスコットランド人ジョン・ブラウンと関わる機会が増え、彼を寵愛するようになった。ブラウンは事実上ヴィクトリアの秘書、ボディーガードとなっていき、王族や首相といえどもブラウンを介さなければヴィクトリアに謁見できなくなった。この女王とブラウンとの関係をマスコミが面白半分に取り上げ、二人が秘密結婚したなどという噂が流れるに至り、ヴィクトリアは「ミセス・ブラウン」などと呼ばれるようになった。1872年、バッキンガム宮殿でヴィクトリアに17歳のアイルランド人が拳銃を向け、ブラウンに取り押さえられる事件が発生する。拳銃に弾が入っていなかったため、犯人の刑は懲役1年だった。二人の間にセックスの関係があったのかについては歴史家の間で意見が分かれており定かではない。ヴィクトリアとブラウンの親密な関係は1883年のブラウンの死まで続いたが、その頃にはすっかり肥満した老婆になっていたヴィクトリアはあまりゴシップのネタにならず、ブラウンも勤勉な世話係として評価されるようになっていた。ブラウンが亡くなった際にはヴィクトリアはアルバート崩御の時並みに取り乱したという。そしてブラウンの部屋を死去までの18年にわたってそのままの状態で保存させ、毎日摘みたてのバラを彼の枕に添えさせた。 ただこの服喪時代にもヴィクトリアは外交には強い興味を持ち、パーマストン子爵の内閣がイタリア統一、アメリカ南北戦争、ポーランド1月蜂起、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題など他の欧米諸国の問題に介入を企む姿勢を見せるとヴィクトリアは不介入を政府に指示してブレーキをかけた。また逆にダービー伯爵の孤立主義・不介入主義に対してはルクセンブルク問題のようにヨーロッパの平和が脅かされる恐れがある問題については積極的に介入するべきであると発破をかける役割を担った。 また夫を弔う事には勤勉であり、アルバートの銅像や霊廟の建設、弔慰アルバム作成などに熱心だった。1868年にはスコットランドでの夫アルバートとの思い出を綴った『ハイランド日誌』を出版した。こうした真摯な追悼の姿は共和主義を台頭させながらも王室への親近感も与えていた。共和主義者のジョン・ブライトも「女王であろうと労働者の妻であろうと愛する者を失った悲劇への同情は広くあるべき」としてヴィクトリア女王への同情を表明していた。 最終的にヴィクトリアを引きこもり生活から立ち直らせたのはベンジャミン・ディズレーリであった。
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