日立鉱山の閉山
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1973年(昭和48年)6月、日本鉱業から日立鉱山は経営分離され、日本鉱業の子会社である日立鉱山株式会社となった。ニクソンショック以降の円高によって銅価格が下落し、また石油精製時に水素化脱硫装置、硫黄回収装置を用いることによって副産物として生産されるようになった回収硫黄が急速に市場に出回るようになり、減反政策の影響で化学肥料の国内消費量が減少し、諸外国でも化学肥料の自給が進み輸出も減少したために、銅とともに日立鉱山の主要産物であり、収入の約4割を占めていた硫化鉄鉱の需要が急落したことが原因で、日立鉱山の経営状態は急速に悪化していた。しかし国内鉱山は、諸外国からの鉱石輸入が主流となっても政治情勢などに左右されることが少なく最も安定した資源確保が可能という点と、海外での資源確保のために必要な人材や技術を養成する場所として国内鉱山の存在が望ましいという点から子会社化して日立鉱山は存続されることになった。 日立鉱山の経営分理時、再び大きな人員削減と事業の見直しが行われた。鉱山の労働組合は1962年(昭和37年)の大規模合理化の時と同じく、約4ヶ月間に渡って激しく争議を繰り返したが、結局満53歳以上の技能職職員の繰上げ定年などが実施され、日立鉱山の技能職職員の約三分の二が退職することになった。また可能な限り鉱山の操業を続けることを目的として、粗鉱生産量を月産3万トンから1万2000トンとし、収支バランスを維持するために採鉱する粗鉱の品位を1.65パーセントから2.08パーセントに引き上げることとした。また探鉱を行い、新たな鉱脈の発見に努めることとした。しかし1973年(昭和48年)末からの第一次オイルショックによる不況は銅の需要の低迷と更なる価格の下落を招き、独立後の日立鉱山の経営も困難が続いた。 日立鉱山株式会社の設立後、最も重視されたのが探鉱による新鉱脈の発見と開発であった。この当時、日立鉱山を支えていたのは1956年(昭和31年)に発見された藤見鉱床で、日立鉱山株式会社時代は鉱石産出量の約7割を占めていた。探鉱の結果、いくつかの小鉱脈を発見し、1977年(昭和52年)下半期から1年半、特別探鉱を実施したが新たな鉱脈の発見には結びつかず、この時点で日立鉱山では新たな鉱脈発見の余地はないものと判断された。 1976年(昭和51年)には日立精錬所の自溶炉が操業停止して粗銅精練は佐賀関に一本化されることとなり、日立では佐賀関で精練された粗銅を電気銅にする電練工場中心の経営となった。また同年、中央病院を廃止して独立採算可能な日鉱日立病院を新たに創立し、1962年(昭和37年)の合理化時に供給所から改組された日立鉱業所購買会を解散して株式会社日立購買会とするなど、大規模な組織の改変が行われた。 日立鉱山では採鉱に要するコストを削減する様々な工夫を行い、採算を維持することが出来る鉱石の品位を下げて可採埋蔵量を増やす試みも行われたが、鉱山内で使用する資材の値上がりなどのため思うにまかせなかった。結局、銅品位2.08パーセント以上の鉱石を掘り尽くしたことにより、1981年(昭和56年)9月30日、日立鉱山は閉山となった。 1962年(昭和37年)以降の大規模な合理化、そして1981年(昭和56年)の閉山によって日立鉱山から離職した人々の多くは、日立市やその近隣で再就職して生活を続けた。特に閉山時の離職者の地元再就職率は80パーセントを越えた。これは日立製作所やその関連企業など、日立鉱山近隣には比較的恵まれた労働市場が存在したことが最大の原因であるが、一山一家主義に見られるように家族主義的な色彩が強い企業であった日立鉱山の伝統が、日立鉱山から独立した日立製作所や日立鉱山と日立製作所を抱えた日立市にも影響を及ぼし、地域全体に家族主義的な傾向が強いことによって血縁や地縁が根強いことも大きかった。そのため鉱山中心部であった本山地区は、最盛期には1万人を越えた人口が数十世帯にまで減少するという過疎化が進行したが、日立鉱山閉山によって鉱山で働いていた人々が完全に四散するという事態は起こらなかった。
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