日立鉱山の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
これまで経営が軌道に乗ることが無かった赤沢銅山であったが、1905年(明治38年)12月11日に久原房之助によって買収契約がなされた後、急速に発展していくことになる。久原は藤田組経営者の一族であり、閉山やむなしと見なされていた小坂鉱山を、生鉱吹という当時としては画期的な製錬法によって再生させた実績を持っていた。しかし久原はかねてから藤田組から独立して自らが事業を行う野心を持っており、日本各地の鉱山についての情報を収集していた。そんな久原の前に赤沢銅山が売りに出されている話が飛び込んできた。調査の結果、有望と判断した久原は藤田組から独立し、赤沢銅山の購入に踏み切った。 1905年(明治38年)12月26日、赤沢銅山は日立鉱山と改名された。これが日立鉱山の開業である。久原が赤沢銅山の経営を引き継いでしばらくの間は、製錬方法はこれまで通りの焼鉱吹であり、採掘が行われていた本山と呼ばれる場所で製錬も行われていた。本山の製錬所に隣接する中里村の入四間地区では、日立鉱山開業の翌年である1906年(明治39年)に初の煙害が発生した。 ところで明治時代から第一次世界大戦期まで、銅は生糸、綿糸、石炭などとともに日本の主力輸出品であった。また19世紀後半以降、電気の普及、そして造船、造艦用、建築用資材、更には弾薬の薬莢などの使用が増大した影響で、世界的に銅の需要は急拡大していた。日本でも日露戦争期以降、やはり電気の普及、そして造船、造艦用、弾薬の薬莢用などの需要が増加し始めており、銅の内需も拡大していた。創業間もない日立鉱山はこのような銅需要の拡大を受けて急発展していくことになる。
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