日立鉱山創業以前の鉱害と煙害問題
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「日立鉱山の大煙突」の記事における「日立鉱山創業以前の鉱害と煙害問題」の解説
日立鉱山は戦国時代末期、佐竹氏の常陸統治時代に金山として開発が始まったと伝えられている。その後江戸時代に入り、水戸徳川家の時代に入り、寛永年間には赤沢銅山という名で銅山として採掘がなされたとの文献が残っている。赤沢銅山は江戸時代前期には早くも鉱毒を含んだ水の流出によって作物に被害を与える鉱害問題を引き起こしていた。江戸時代を通じて断続的に開発が試みられた赤沢銅山であるが、採算が取れなかったことと鉱毒水問題を重く見た水戸藩当局が開発規制を行ったと見られることから、銅山開発は思うように進まなかった。なお、江戸時代を通じて赤沢銅山による鉱毒によって被害を受けた場合、年貢の免除などの補償を受けていた。地域に鉱害の被害について補償する慣行があったことと、江戸時代の赤沢銅山時代、鉱害に苦しめられたことによって、鉱害を監視する意識を地域住民たちが植え付けられていたことは、後に日立鉱山周辺に煙害による多大な被害が発生した際、問題解決に影響を与えることになる。 明治時代に入り、赤沢銅山はしばしば開発が試みられるようになった。明治時代の赤沢銅山開発で問題となったのはやはり鉱毒水であった。鉱毒水の問題は鉱山側と地元住民との間にしばしば鋭い対立を生み、1904年(明治37年)には農商務大臣に対して操業停止の請願が出されるに至った。しかし赤沢銅山時代は鉱山経営が安定することはなく、経営規模も小さく経営者もしばしば交代していた。そして1904年(明治37年)の赤沢銅山操業停止請願の陳情書には初めて煙害について触れられている。それによると製錬所近辺は煙害の影響ではげ山となっているとして、今後被害が拡大していくのではないかとの不安を訴えていた。 なお、明治後半の赤沢銅山の製錬方法は焼鉱吹という方法であった。これは鉱山で採掘された鉱石を選鉱後、まずは薪で焙焼して鉱石中の硫黄分などを除去するとともに硫化鉄などを酸化させるという前処理を行った後、複数工程に分かれた製錬を行うという、全工程を通して極めて手のかかる上に、多くの燃料を消費する製錬法であった。
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