日立鉱山と大煙突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:57 UTC 版)
「神峰山 (茨城県)」の記事における「日立鉱山と大煙突」の解説
日立鉱山の操業、発展により、鉄道が設けられ、神峰山南西の本山を中心とする鉱山集落が発達し、日立市の鉱工業発展の発祥の地となり、太平洋戦争から戦後にかけて最盛期を迎え、住民は7,000余人に達した。 日立鉱山は、結晶片岩の地域に分布し、黄鉄鉱や黄銅鉱を産出する含銅硫化鉄鉱床で、日本屈指の銅鉱山であった。神峰山地下では神峰、中盛、笹目鉱床があった。 1908年に、山の南東の大雄院で、操業を銅精錬場が操業を開始し、1981年に閉山するまで、44万tの銅が生産された。 1929年以降は日本鉱業株式会社(現、ジャパンエナジー)の経営下にあった。 日立鉱山の鉱石は硫黄分が多く、精錬の際に有害な二酸化硫黄が多く発生し、精錬量の増大にともない周辺に煙害が発生し、周辺の山の植物は全滅状態となった。この解決のために、住民と会社が努力し、日立鉱山は山地上16ヶ所の観測所のネットワークをつくり、煙の観測と排出量の調整を行った。神峰山頂の気象観測所は、この気象観測のセンターとして設けられたものが元になっている。 同時に、日本初の継続的な高層気象観測が行われ、地表付近の逆転層を突き抜ける高い煙突の建設による煙害の低減を図った。1914年に神峰山中腹に 高さ156mの大煙突が完成し、煙害は大幅に減少し、さらに戦後の硫酸製造装置の設置、自溶炉の建設等により解決された。 この大煙突は、当時日本最大の高さで、日立鉱山・日立市のシンボルとして市民に親しまれていた。また、荒廃した鉱山・製錬所周辺の植生回復のため、早くから積極的な植林が実施された。 資源枯渇のため、1981年に鉱山は閉山され、精錬場を除く、鉄道や施設は撤去され、集落も消滅し、元の山に戻っている。地区の再開発により、日立市もとやま自然の村が作られたが、2014年3月31日をもって廃止された。 また、鉱山本坑跡には、日鉱記念館が建てられ、鉱山のかつての姿を展示している。 大煙突も老朽化のため、1993年、下部56mを残して倒壊し、高さを減じている。
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