日活直営・常設館として
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1912年(大正元年)9月10日、横田商会が他の4社と合併して日活を設立、このとき日活が同館を買収、映画常設館に業態を変更し、同社の直営館とした。1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、当時すでに西陣地区には、日活直営の同館のほか、東亜キネマ作品を興行する西陣帝国館(大宮通寺ノ内上ル)、帝国キネマ演芸作品を興行する大黒館(のちの西陣キネマ、千本通中立売上ル東入ル北側)、松竹キネマ作品を興行する第二八千代館(のちの西陣八千代館、千本通今出川)、同じく松竹キネマ作品を興行する日本座(三條大宮西入ル)の4館が存在していた。当時の同館の経営元は日活子会社の京都土地興行、代表者は日活社長の横田永之助、支配人は中川昇三郎、観客定員数は1,200名を誇った。 1926年(大正15年)9月11日、松之助が死去し、同月16日に日活が社葬を行い、堀川丸太町にあった松之助邸から棺が運び出され、同館の前を通り、日活大将軍撮影所に運び込まれた。同葬儀のドキュメンタリー映画は、『尾上松之助葬儀』(1926年)として公開された。 1929年(昭和4年)7月25日、牧野が死去し、同年8月1日にマキノ・プロダクション御室撮影所で告別式が行われたが、このとき、すでに日活のものであった同館の前から始まってかつての日活法華堂撮影所跡、次いで日活大将軍撮影所の前を通って、式場に遺骨が運び込まれている。同葬儀のドキュメンタリー映画は、『マキノ省三葬儀の実況』(1929年)として公開された。当時の西陣地区の映画館は、同館のほか、マキノ・プロダクションおよび東亜キネマの作品を興行する西陣帝国館(経営・太田彌三郎)、おなじくマキノ・プロダクションの作品を興行する西陣マキノキネマ(経営・牧野満男、のちの西陣キネマ)、松竹キネマおよび帝国キネマ演芸の作品を興行する西陣八千代館(経営・一立商店)および日本座(経営・小林久三郎)、東亜キネマの作品を興行する西陣弥生館(経営・太田彌三郎)および長久館(経営・寺田亀太郎)、帝国キネマ演芸の作品を興行する昭和館(経営・昭和キネマ)の7館が存在した。 1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない。当時の同館の経営元は引き続き京都土地興行、支配人は神吉哲朗、観客定員数は625名に縮小していた。当時の西陣地区の映画館は、同館のほか、西陣帝国館(経営京都土地興行)、西陣キネマ(経営・佐々木規矩之助)、京都長久座(経営・松竹、かつての長久館)、昭和館(経営・松竹)、新興映画劇場(経営・大映、のちの西陣大映)、千船映画劇場(経営・原田喜盛)、堀川文化映画劇場(経営・五十棲彦一)、富貴映画劇場(経営・佐竹三吾、のちの大鉄映画劇場、経営・中谷勇吉)の8館が存在した。 戦後は、1950年(昭和25年)前後に千本日活館と改称している。1953年(昭和28年)に改称したという資料も存在するが、同年以前である1951年(昭和26年)に発行された『会社年鑑 1951』(日本経済新聞社)には、伏見日活館、福知山第一日活館等と並んですでに「千本日活館」として記載されており、1952年(昭和27年)に発行された『日活四十年史』も同様である。 1963年(昭和38年)6月、日活が当時の一連の資産売却の方針により閉館、翌年には博多日活劇場、名古屋日活劇場等とともに同館を売却した。売却先は田中不動産、売却額は3,990万円であった。跡地は改装されてコマストアー千本店、西友ストアーによる買収後は西友ストアー千本店(のちの関西西友千本店)になった。その後1985年(昭和60年)6月、鉄筋コンクリート9階建のマンション「ハイツ千本一条」に建替えられ、同マンションの1階には無印良品千本が入居していたが、2014年(平成26年)に閉業した。現在は、同地の前の街灯に「千本座跡地」のプレートが設置されている。 同館閉館後の西陣地区での日活の興行については、同館の閉館とともに西陣新地土地建物株式会社が経営する五番街東宝を千本日活と改称して引き継ぎ、その後経営が現在の宮崎興行に代り、現在に至る。2019年(令和元年)7月現在、千本日活は、同地区に残る最後の映画館となった。
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