日活太秦撮影所時代
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1929年(昭和4年)4月に太秦新撮影所への現代劇部の移転が完了、企画部長・監督部長・脚本部長を兼任。ジョセフ・フォン・スタンバーグに大きく影響された作品『摩天楼・争闘篇』が『灰燼』とともに第6回キネマ旬報ベストテン第5位、翌1930年(昭和5年)8月には「第一回日本優秀映画監督投票」で伊藤大輔(457票)に次いで第2位(388票)に選ばれ、さらに同年12月発行の『日活の社史と現勢』には「現代劇計画部長兼社長秘書」と紹介されることになるが、この頃の日活現代劇は既に溝口健二、田坂具隆、内田吐夢らの若い才能が台頭してきており、重役間の紛糾による「金曜会」の解散、時代の反映として激しくなる従業員と会社の対立、トーキー化に伴う製作形態の変化(会社側による監督の自由・自主的な作品製作の制限)に苦悩することになる。以前(1927年頃)『小型映画』に講座を執筆している関係で京極キネマ倶楽部の小型映画審査に出向き、そこで出会った当時住友銀行員でアマチュア映画を制作していた依田義賢が1930年に村田付きの助監督・スクリプターとして入社しているが、『海のない港』(1931年)以降は「製作している村田の姿にも勢いがなく、持病の糖尿病が嵩じてきているのではないかと思える元気のなさや、セットに身を投げ、悩むように頭をかかえて、演出を案ずる姿など痛いたしいこともあった」と回想している。 1932年(昭和7年)8月、中谷貞頼専務が、名物所長として知られた池永浩久とその一派を駆逐し所内の実権を握ろうとした内紛劇が起こり、さらに中谷が経営合理化の名目で撮影所従業員186名を大量解雇したことによる大争議が勃発、他の幹部監督らと従業員側に立って争議を指導したが、やがて激化する従業員側と会社側との板挟みになり、9月には争議を「収拾する能力なくその任に耐えず」と伊藤大輔・内田吐夢・田坂具隆・小杉勇・島耕二・製作部の芦田勝の「脱退七人組」と共に退社した。同時期に長女を亡くしている。
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