日活太秦撮影所時代とは? わかりやすく解説

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日活太秦撮影所時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 15:57 UTC 版)

村田実」の記事における「日活太秦撮影所時代」の解説

1929年昭和4年4月太秦撮影所への現代劇部の移転完了企画部長・監督部長脚本部長兼任ジョセフ・フォン・スタンバーグ大きく影響された作品摩天楼争闘篇』が『灰燼とともに第6回キネマ旬報ベストテン第5位、翌1930年昭和5年8月には「第一回日本優秀映画監督投票」で伊藤大輔(457票)に次いで第2位388票)に選ばれ、さらに同年12月発行の『日活社史現勢』には「現代劇計画部長社長秘書」と紹介されることになるが、この頃日活現代劇は既に溝口健二田坂具隆内田吐夢らの若い才能台頭してきており、重役間の紛糾による「金曜会」の解散時代反映として激しくなる従業員会社対立トーキー化に伴う製作形態の変化会社側による監督の自由・自主的な作品製作の制限)に苦悩することになる。以前1927年頃)『小型映画』に講座執筆している関係で京極キネマ倶楽部小型映画審査出向き、そこで出会った当時住友銀行員でアマチュア映画制作していた依田義賢1930年村田付き助監督スクリプターとして入社しているが、『海のない港』(1931年以降は「製作している村田の姿にも勢いがなく、持病糖尿病が嵩じてきているのではないか思える元気のなさや、セット身を投げ、悩むように頭をかかえて演出案ずる姿など痛いたしいこともあった」と回想している。 1932年昭和7年8月中谷貞頼専務が、名物所長として知られ池永浩久とその一派駆逐し所内実権握ろうとした内紛劇起こり、さらに中谷経営合理化名目撮影所従業員186名を大量解雇したことによる争議勃発、他の幹部監督らと従業員側に立って争議指導したが、やがて激化する従業員側と会社側との板挟みになり、9月には争議を「収拾する能力なくその任に耐えず」と伊藤大輔内田吐夢田坂具隆小杉勇島耕二製作部芦田勝の「脱退七人組」と共に退社した同時期に長女亡くしている。

※この「日活太秦撮影所時代」の解説は、「村田実」の解説の一部です。
「日活太秦撮影所時代」を含む「村田実」の記事については、「村田実」の概要を参照ください。

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