日活現代劇からインドネシアへとは? わかりやすく解説

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日活現代劇からインドネシアへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 10:01 UTC 版)

倉田文人」の記事における「日活現代劇からインドネシアへ」の解説

1905年明治38年1月25日大分県速見郡山香町現在の同県杵築市山香町)に生まれる。 1929年昭和4年)、日活太秦撮影所現代劇監督部に入社木村次郎師事同年木村監督した名なし』に助監督としてクレジットされる。同撮影所の同部で、溝口健二田坂具隆師事する助監督熊谷久虎知り合う1932年昭和7年)、谷幹一主演の『とかく女と言ふものは』で監督昇進した1934年昭和9年)、新たに開所した日活多摩川撮影所現在の角川大映撮影所)に異動する1938年昭和13年)に手がけた『北へ帰る』で監督としての評価を得る。1940年昭和15年)に手がけた『沃土万里』が、同撮影所での最後作品となる。 1942年昭和17年)、太平洋戦争従軍するインドネシアジャカルタで、「インドネシア映画芸術連盟」を組織する1943年昭和18年)に『セレベス新聞が行った座談会に、当時ジャワ映画会社理事長大宅壮一映画監督石本統吉東宝営業部長三橋哲夫美術家河野鷹思作曲家飯田信夫活動弁士松井翠声、大阪商科大学教授別枝篤彦、小説家武田麟太郎とともに参加している。倉田はそこで、インドネシア映画製作状況として、ジャカルタに6か所、スラバヤマランそれぞれ1か所の撮影所があり、技術者はほとんどが華僑であってインドネシア人がいないことを述べ、その状況に対して倉田は、映画製作等の文化指導行っていたようである。倉田は、日本映画社ジャカルタ撮影所インドネシア映画部長として、『南の願望』(監督Rd・アリフィエン、1944年)を製作している。当時ジャワ宣伝班には、ほかにも、小説家阿部知二漫画家横山隆一画家小野佐世男らがいた。

※この「日活現代劇からインドネシアへ」の解説は、「倉田文人」の解説の一部です。
「日活現代劇からインドネシアへ」を含む「倉田文人」の記事については、「倉田文人」の概要を参照ください。

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