日活現代劇からインドネシアへ
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「倉田文人」の記事における「日活現代劇からインドネシアへ」の解説
1905年(明治38年)1月25日、大分県速見郡山香町(現在の同県杵築市山香町)に生まれる。 1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所現代劇監督部に入社、木村次郎に師事、同年、木村の監督した『名なし鳥』に助監督としてクレジットされる。同撮影所の同部で、溝口健二や田坂具隆に師事する助監督の熊谷久虎と知り合う。1932年(昭和7年)、谷幹一主演の『とかく女と言ふものは』で監督に昇進した。 1934年(昭和9年)、新たに開所した日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動する。1938年(昭和13年)に手がけた『北へ帰る』で監督としての評価を得る。1940年(昭和15年)に手がけた『沃土万里』が、同撮影所での最後の作品となる。 1942年(昭和17年)、太平洋戦争に従軍する。インドネシアのジャカルタで、「インドネシア映画芸術家連盟」を組織する。1943年(昭和18年)に『セレベス新聞』が行った座談会に、当時、ジャワ映画会社理事長の大宅壮一、映画監督の石本統吉、東宝営業部長の三橋哲夫、美術家の河野鷹思、作曲家の飯田信夫、活動弁士の松井翠声、大阪商科大学教授の別枝篤彦、小説家の武田麟太郎とともに参加している。倉田はそこで、インドネシアの映画製作の状況として、ジャカルタに6か所、スラバヤ、マランにそれぞれ1か所の撮影所があり、技術者はほとんどが華僑であって、インドネシア人がいないことを述べ、その状況に対して、倉田は、映画製作等の文化指導を行っていたようである。倉田は、日本映画社ジャカルタ撮影所インドネシア映画部長として、『南の願望』(監督Rd・アリフィエン、1944年)を製作している。当時のジャワの宣伝班には、ほかにも、小説家の阿部知二、漫画家の横山隆一、画家の小野佐世男らがいた。
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