日活大将軍撮影所時代
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同年9月1日に発生した関東大震災で向島撮影所が全壊し、日活現代劇部は京都の大将軍撮影所に「第二部」として移された。1924年(大正13年)、日本最初の反戦映画とされる『清作の妻』が好評を得、1925年(大正14年)には『街の手品師』で「大正14年度朝日新聞最優秀映画」を日本映画で初めて受賞し、新劇出身の岡田嘉子が一躍スター女優となった。村田はカットごとに演出を細分化する、いわゆる映画的技法を最初に確立した監督の一人と言われているが、容赦なく自分の型に俳優をはめ込もうとして演技指導は苛烈を極め、岡田をはじめ当時の大女優とトラブルが多かった。この『街の手品師』撮影・封切前後は木村荘十二を等持院の自宅の書生に招き、日活野球部にいた中野英治を俳優部に採用しているが、次作『大地は微笑む』の撮影直前に急病で倒れ、溝口健二が代わり成功させた。同年7月、ドイツのウエスチ社のすすめで『街の手品師』を携え、脚本を担当した森岩雄とともに尾上松之助ら日活重役に見送られて渡欧。パリ、ベルリンで上映会を開くが、上映機材の不具合や「絵の暗いこと、欧州臭いこと、特種国は特種国らしい味を出していればそれでいいのだ」(仏『シネ・ミロア』誌)などと大不評であり、ショックを受けるが、ドイツのループピック監督が興味を示し上映会を開くという約束を取り付け、一応の面目を施して1926年(大正15年)1月に帰国した。 帰国後、第二部主席監督となり、同年5月、連合映画芸術家協会の伊藤大輔との競作『日輪』では、構成主義者村山知義の抽象画風の装置を演出に取り入れ話題となり、第3回(1926年度)キネマ旬報ベストテンで第2位に選出。師小山内薫も監督術を絶賛している。しかし、当時の日活現代劇は松竹蒲田に大きく遅れをとっており、その対策として、同年6月に常務に昇格した根岸耕一の了解を得、森岩雄と丸の内の本社内に企画本部日活金曜会を設立。本社に残っていた田中栄三をはじめ、益田甫、岩崎昶、山本嘉次郎ら社外の者が会員となり、阿部豊ら日活監督のために清新なシナリオや企画を生産立案して、日活現代劇のモダン・イメージの形成に成功した。 1927年(昭和2年)3月には『映画時代』三月号の「監督人気投票」で第1位(第2位は牛原虚彦)に選出され、監督としての確固たる地位を築くが、直後に開始された「金曜会」企画の『椿姫』の撮影中に主役の岡田嘉子に群衆の前で罵倒に近い叱声を浴びせかけ、私生活の縺れも重なって、岡田が相手役の竹内良一と駆け落ちし一時失踪。スキャンダルとして大騒ぎになる。会社が「岡田がやらないのなら、脚本をひっこめる」という森岩雄と嫌がる夏川静江をなだめ、ミスキャストに変更せざるを得なくなったが、興業的には大ヒットした。この頃から文芸部長として日活現代劇のプロデューサー的存在となり、1928年(昭和3年)には田坂具隆の『結婚二重奏』(第5回(1928年度)キネマ旬報ベストテン第8位)の演出を手がけ、同年6月に牛原虚彦と『映画科学研究』を創刊するなど、後進の指導にも注力した。そして年末には日本の思想風土の問題点を主題にした徳富蘆花原作の悲劇『灰燼』の撮影にとりかかり、翌1929年(昭和4年)3月の封切を観た当時映画青年であった新藤兼人は、叡山ケーブルから中野英治扮する西郷軍の敗残兵の姿を追う青島順一郎の俯瞰移動撮影を「日本映画ではじめて見る壮大な映像美であった」と回想し、「これは今日に至るまで、日本に於て作られた映画の中で、その最も優れたるものの一つである」と評され第6回(1929年度)キネマ旬報ベストテン第2位を獲得。名実ともにトップ監督として大将軍撮影所を後にした。
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