日活後期:『月曜日のユカ』で新境地
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昭和39年(1964年)には加賀まりこの『月曜日のユカ』、戸川昌子原作『猟人日記』、吉行淳之介原作『砂の上の植物群』、『おんなの渦と渕と流れ』と立て続けに撮った映画は、テクニック面に才気を見せるが、彼の作品は映画賞にはまるで縁がなかった。「ヒッチコックだって賞なんかもらってやしない」と周囲に洩らすこともあったという。岡本・増村、同じ日活の今村昌平や浦山桐郎が名声を高めていく中で”取り残された焦りからか生活を荒れさせ”、撮影現場で飲酒することすらあったと伝えられる。加賀まり子によると『月曜日のユカ』の撮影時の現場では既に中平康は泥酔状態で実質監督したのは斎藤耕一(脚本・スチルカメラ)であったという。 昭和40年(1965年)、小林旭の黒い賭博師シリーズでは中平が初登板した第6作『黒い賭博師』で、従来の哀愁や情念の要素を抜き去った、モダンなタッチに路線変更。翌昭和40年(1965年)、シリーズ最終作となる『黒い賭博師 悪魔の左手』でも、度が過ぎるほどの荒唐無稽さと映像テクニックを見せつけた。この時期、日活のヒットメーカーとして、「森永キャラメル(健次郎)」「江崎グリコ(実生)」「中平おこし」と、菓子の名前で並び称されていた。 昭和42年(1967年)以降、香港のショウ・ブラザーズに招かれ、自身の『野郎に国境はない』、『狂った果実』、『猟人日記』をそれぞれリメイクした他、渡辺祐介脚本(ノンクレジット)の『飛天女郎』を監督。日本と香港を往来しつつ、日本でも映画を撮るが、日活が勢いを失っていく中、撮影時の飲酒を咎められるなどもあり、昭和43年(1968年)『ザ・スパイダースの大進撃』を最後に日活を解雇される。解雇及び香港での映画製作のきっかけは昭和38年頃に当時の日活堀社長と映画を巡って喧嘩を起こしたことだった。東宝の藤本真澄、東映の岡田茂に掛け合って映画を撮らせて欲しいと頼んだが、五社協定を理由に断られ、日本では映画が撮らせてもらえないと判断したからであるという。堀社長からは「他の奴と違うことをするな」と戒められたが、それは自分の性分に合わないと中平は聞き入れなかった。
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