日活前期〜娯楽映画、商業主義映画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:15 UTC 版)
「中平康」の記事における「日活前期〜娯楽映画、商業主義映画」の解説
昭和31年(1956年)、プロデューサーの水の江滝子に才能を見出され、助監督身分のまま、殺人事件の舞台となる銀座裏通りを丸ごとオープンセットで作り、随所にパンフォーカスを駆使した『狙われた男』を監督(公開は『狂った果実』の後)、新人監督らしからぬ中編スリラーとなる。「うるさ型」の監督として知られ、同年の『太陽の季節』(古川卓己監督)のヒットを受け、わずか17日間で撮影された1956年の二作目、『狂った果実』がヒット作となった。これにより、新人だった石原裕次郎がスターになっていった。 ルネ・クレール、ビリー・ワイルダーに心酔。才能のポテンシャルとしては同世代のモダン派として並び称された岡本喜八、増村保造らと同レベルと見られた。『牛乳屋フランキー』、『街燈』、『誘惑』、『才女気質』等のスピーディーで軽妙洒脱な作品に力量を発揮した他、『殺したのは誰だ』、『紅の翼』、『その壁を砕け』、『密会』等のサスペンスやミステリーと、あらゆるジャンルを描いた。昭和34年(1959年)にはエジプトとの合作『アラブの嵐』を監督。当初は通訳をつけていたが、中平の意向で途中から通訳なしで撮影をしていた。中平曰く「喜怒哀楽が同じだから、言葉は通じなくても意が通じた」とのこと。昭和35年(1960年)の『学生野郎と娘たち』では、主人公を一人に限定せず多くの登場人物を等価に描くという中平流群像劇の方法論を映像化した。しかし「反・荘重深刻派」、「日本軽佻浮薄派」を自任し、テーマ性や社会性がある題材よりも娯楽映画を好み、映像テクニックを重視する彼の作風は、映画評論家には理解されなかった。 エッセイや映画評論もおこなった。娯楽映画やスター・システムに乗っかった中平は、映画賞で「テーマ性や社会性のある作品ばかりがベストテン入り」する状況を厳しく批判した。映画を原作や素材によって評価するのではなく、その素材をどのように映像化したかをこそ評価すべきだと繰り返し訴えたが、聞く耳を持つ者はあまりいなかった。その結果、映画評論家を敵に廻すことも多かった。 この時期に日活のスター・システムが確立されたのに伴い、プログラムピクチャーを量産。スター中心の映画製作であっても、あくまでも「まず映画ありき」の姿勢で臨み、吉永小百合は後に「一番恐い監督でした」と語るなど、その演出姿勢は変わらず厳しいものであったとされる。 『学生野郎と娘たち』の次に撮った『地図のない町』は橋本忍に納得の行くまで脚本の書き直しを依頼し石原裕次郎主演作として自ら企画したが、裕次郎のスターイメージを損なうとして会社側に却下されて、結局、葉山良二主演で映画化された。同年、石原裕次郎の『あした晴れるか』から昭和36年(1961年)には中平最大のヒット作となった石原裕次郎の『あいつと私』をはさんで1963年、吉永小百合の純愛路線の『現代っ子』まで、娯楽映画、商業主義映画が続いた。
※この「日活前期〜娯楽映画、商業主義映画」の解説は、「中平康」の解説の一部です。
「日活前期〜娯楽映画、商業主義映画」を含む「中平康」の記事については、「中平康」の概要を参照ください。
- 日活前期〜娯楽映画、商業主義映画のページへのリンク