日活多摩川撮影所長
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1934年(昭和9年)、日活の社長松方乙彦は、その親戚で「新聞連合」社長の岩永裕吉に推薦され、根岸の存在を知る。翌年の1935年(昭和10年)10月、日活に入社した根岸は、日本映画(京都の東活映画社の残党が設立、まもなく倒産)から買収したばかりの「日活多摩川撮影所」(のちの角川大映撮影所)の所長に就任。 ここから日活を辞するまで、「多摩川の父」と呼ばれ所員から親しまれた根岸のもとで、内田吐夢監督の『人生劇場・青春編』や『土』など、日本映画の傑作や力作が怒涛の如く生み出される。カネは無いから酒は出せないが、お茶でも飲みながら好きな話をしようと、部署や役職を抜きにした茶話会で皆と意見を交換したブレインストーミングを度々開いた。しかし経営基盤の弱い日活内部では紛争が次第に拡大。 1938年(昭和13年)3月23日、「松竹の走狗となって日活乗っ取りを図った」との理由で取締役を罷免される。根岸を慕う撮影所従業員は一致団結してストライキの気勢を示すが、前年就任した森田佐吉社長は多摩川撮影所に刺青者のヤクザを動員して乗り込み、所員を集めて「根岸寛一という男はもと左翼、無政府主義者崩れで、抗日支那人の同類である」と演説。 同年5月3日、横田永之助(日活創始者)、大谷竹次郎両巨頭の会談によって紛争は一段落の構えを見せ、根岸の罷免は撤回される。撮影所の実権を握りたい反対派から「根岸は浅草時代の借金返済のために会社の金を着服している」とする中傷まで浴びたが、毎月給料の中から少しずつ払っているのが実情だった。このような環境は根岸にもやりきれないものだった。 6月に突如辞表を提出。撮影所のスタッフから慰留されるが満州よりの誘いもあり、マキノ光雄、江守清樹郎らとともに満州映画協会へ去る。根岸の去った後、日活内部では松竹と東宝の株式買収合戦が繰り広げられ、訴訟合戦の泥仕合に発展。
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