日本への輸入まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 04:48 UTC 版)
「サンデーサイレンス」の記事における「日本への輸入まで」の解説
ハンコックは当初総額1000万ドル(1株25万ドル×40株)のシンジケートを組み、サンデーサイレンスにアメリカで種牡馬生活を送らせる予定だった。しかし、アメリカでのヘイロー産駒の種牡馬成績が優れていなかったことや、ファミリーラインに対する評価の低さから、種牡馬としてのサンデーサイレンスに対する評価は低く、株の購入希望者はわずか3人にとどまり、種付けの申込みを行った生産者はわずか2人であった。このことについて片山良三は、アメリカの生産界では2歳馬の時に高値がつかなかった馬は種牡馬になっても評価されないという風潮があり、前述のとおり1歳の7月、2歳の3月と2度もセリに上場されながらも一度も買い手がつかず、5万ドルにも及ばない1万7000ドルでハンコックに買い戻されたというサンデーサイレンスのデビュー前の出来事がアメリカの生産者たちに二の足を踏ませたと述べている。 そんな中、1990年はじめにハンコックから250万ドルで持ち分の半分(全体の4分の1)を買い取っていた日本の競走馬生産者・吉田善哉が、サンデーサイレンスの購入をハンコックに打診した。当時のハンコックはストーンファームの経営を拡大させた中で出来た負債を抱えており、さらにアメリカ全体が深刻な不況に苦しんでいた経済的事情から、「他に道はない」と判断し、サンデーサイレンスを売却することを決断した。 吉田善哉がサンデーサイレンスの購入のために使った金額は1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)であった。吉田善哉の子で社台ファーム代表を務める吉田照哉によると、取引成立には善哉とウィッティンガム、さらに照哉とハンコックとの間に交友関係があったことが大きく作用しており、照哉自身がクレイボーンファームに隣接するフォンテンブローファームの場長を務めたことがあり、その縁でハンコックとは親しい間柄であったため「築きあげてきた人脈なくしては不可能だった」と語っている。また、照哉は輸入の際に自身が大きく関わったノーザンテーストが種牡馬として成功したことにより、社台グループに資金がもたらされたことでサンデーサイレンスを輸入することができたといい、これは同じく海外から輸入したトニービン、ホワイトマズルも同様だったと述べている。 しかしながら、この取引は当時「日本人のブリーダーがとても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」とアメリカの生産者の笑いものになった。ただし、吉田照哉は「いい買い物をした自信が、なぜかあった」と当時の心境について振り返っている。一方、「欧米の超スーパーホースが、いきなり日本で種牡馬入りするというのはまずあり得ない」と考えられていた当時の日本競馬界では衝撃をもって受けとめられ、吉沢譲治は「野球に例えるなら、メジャーリーグで現役バリバリの奪三振王、ホームラン王が、何かの間違いで日本の高校野球に入ったようなものだった」と評している。血統評論家の栗山求によると、評論家の間でもサンデーサイレンスが種牡馬として成功するかについて意見が分かれ、失敗派の評論家はほとんどが血統背景を弱点として挙げ、「安定した成績は望めず、気性の荒さも半端じゃないため、一発屋タイプではないか。ジャッジアンジェルーチのような失敗種牡馬になる可能性も否定できないと思う」という意見があった。一方、成功派の意見としては「一定以上の成功は堅いよ。とにかく繁殖牝馬のレベルは素晴らしいです。激しい気性が競走意欲に転換できれば面白いと思いますね」と主張する評論家がいたものの、このコメントの前には「ノーザンテーストやトニービンのようにクラシックを勝ちまくるといった活躍は難しいかもしれませんが」という但しが付いていたという。 作家の吉川良によると、吉田善哉がサンデーサイレンスの購入を思い立ったのは、同馬が勝ったプリークネスステークスのビデオを自宅で観ていたときのことだという。吉川はこの時善哉と一緒に同レースを観戦していたが、レース後に善哉は「欲が出るね。これは忙しくなる。わたしか照哉がしばらくアメリカに下宿しなくちゃならなくなるかもしれんな」と呟き、秋に赤坂で一緒に食事をした際には「馬の仕事をする家に生まれていろいろやってきたけど、一番の仕事が待ってるような気がするね」、「恋愛みたいなもんだ。大仕事だ。私の最後の大仕事だと自分に言い聞かせてる。これがうまくいったらね、何も思い残すことはないから引退だ」と語ったという。実際に購入に踏み切った動機について、作家の木村幸治は「社台ファームで繋養されていた種牡馬ディクタスが1989年9月20日に死亡したため、その後釜を探していた」のだと推測している。木村によると当時社台ファームにはノーザンテースト、リアルシャダイ、ディクタスに続く種牡馬を導入し、生産馬について「同じ系統の馬だけが増加し、近親の度合いが濃くなり過ぎる」ことを解消しようとする動きがあったという。 吉田善哉は、サンデーサイレンスが勝ったブリーダーズカップ・クラシックを現地で観戦して帰国後、「サンデーサイレンスを早来に持ってくるぞ」と宣言した。ハンコックによると、購入交渉における吉田善哉の「サンデーサイレンスに対する執着心は度外れたものだった」といい、「(吉田善哉はサンデーサイレンスの)ああいう体形を特に好んだかもしれないね」振り返っている。また、善哉と同じくブリーダーズカップ・クラシックを現地で観戦した吉田照哉は、サンデーサイレンスの勝ち方に感激してその場でハンコックに思わず「売ってくれ!」と頼んでしまったといい、また引退後の繋養先が決まっていなかった時期にサンデーサイレンスのEVAの接種期限が迫り、日本の決まりではEVA検査で陽性と判定されてしまったら防疫上の理由で絶対に輸入ができなくなってしまうというきまりがある中で、翌日サンデーサイレンスが注射を控えていたタイミングでハンコックから電話がかかってきた際「全部の権利を買うから待ってくれ!」とこれも衝動的に叫んだという。そのため、サンデーサイレンスの輸入が決まった時が輸入が可能な期限の「ギリギリのタイミングだった」と振り返っている。 しかし、吉田善哉はサンデーサイレンス産駒のデビューを見ることなく1993年8月13日に72歳で逝去した。吉田照哉はサンデーサイレンス産駒のデビュー後に「せめて父に、サンデーの子が(ダービーを)走るまで、生きていてほしかった。いや、父はきっと今、三歳馬たちの活躍を見て、喜んでくれているに違いありません」と語っている。吉田善哉は生前、吉川良に次のように語っていた。 ノーザンテーストと同じくらい走ると信じてるサンデーサイレンスの子を走らせればね、そのうち、何十年したって、日本のあちこちでサンデーの血が走るわけだね。わたしは生まれ変われないが、わたしのね、馬屋の意地は生まれ変われるんだ。馬屋の全知全能を賭けた交渉だね、サンデーサイレンスは — 吉川1999、412頁。
※この「日本への輸入まで」の解説は、「サンデーサイレンス」の解説の一部です。
「日本への輸入まで」を含む「サンデーサイレンス」の記事については、「サンデーサイレンス」の概要を参照ください。
- 日本への輸入までのページへのリンク