日本の機帆船
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日本では20世紀初頭に、まずは帆走漁船用の補助機関として焼玉機関が使用され始めた。その後に、江戸時代より続く弁才船等の純粋帆船が多かった沿岸用貨物船の改良として補助的な焼玉機関の搭載が始まり、純然たる帆船に代わって1920年代には多用されるようになった。初期は帆船に補助機関を搭載したものであったのが、1930年(昭和5年)頃からは逆に機走主体に変わった。船体は木造のままで、大きさは150総トン以下が多く、この頃に日本で狭義に言う「機帆船」の典型が完成し、用語としても定着した。瀬戸内海など各地の石炭や雑貨の輸送でかなり重要な地位を占めた。第二次世界大戦期には、多数が日本軍に徴用されて東南アジアなどの占領地での局地輸送に従事し、さらには鉄資源節約になることもあって戦時標準船としてまで建造された。 戦時標準船には70噸型、100噸型、150噸型、200噸型、250噸型、300噸型が建造された。航海速力が遅く5~6ノット程度しか出ず、帆走を持たない機船の戦時標準船と比べて鈍足だった。 戦後も沿岸航路で使用され、ディーゼルエンジン化や船体外板の鉄張補強などの改良もあったが、1960年(昭和35年)頃から次第に小型鋼船に地位を奪われていった。過剰船腹の縮減を図る政府の意向もあって、老朽機帆船の廃船と小型鋼船の代替建造によるスクラップアンドビルドが進んだ。1960年代前半には一般貨物仕様とタンカー仕様を合わせて約2万5千隻が使用されていたが、1970年には8千隻以下に減少して合計総トン数でも小型鋼船の1/3に落ち込み、1980年には2300隻で合計総トン数では内航貨物船舶の4.3%だけとなった。この間、運輸省の運輸白書の統計分類でも、昭和41年度版(1966年度)までは「機帆船」の語が使用されていたが、昭和42年度版(1967年度)からは「木船」に用語が変更されている。2008年(平成20年)3月末の時点で、木船は、中国運輸局管内にはタグボートを含めて302隻(計5394総トン)、四国運輸局管内には14隻(計750総トン)が確認されている。なお、国土交通省による輸送実績の標本調査では、2005年(平成17年)度の79トンを最後に、木船(20総トン以上のもの)による輸送は記録されていない。 日本の機帆船海運の経営の特色として、帆船時代の名残から「一杯船主」「一隻船主」と呼ばれる持ち船1隻で実質個人所有の零細業者がほとんどで、船問屋が介在して積荷の管理などを行っていたことが挙げられる。日中戦争ころに戦時体制下で機帆船組合の設立が進み、船舶運営会による運航統制や、大手海運会社による機帆船海運会社の設立もあった。戦後は合理化施策として、内航海運業法に基づく許認可の際に行政指導が行われて、内航海運組合も関わった零細企業の整理が行われた。それでも大勢に変わりは無く、小型鋼船への更新後にも受け継がれ、内航海運には現在も保有船1隻のみの事業者が多い。
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