日本の模型航空の戦後復興と教育方針の転換
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「模型航空教育」の記事における「日本の模型航空の戦後復興と教育方針の転換」の解説
前述の「模型飛行機禁止令」などによる数年間の空白の後、昭和23(1948)ころ、模型飛行機は解禁されて、競技会などの活動も再開された。模型航空の内容は、「アメリカ式」のホビー/スポーツに変わった。米軍占領下で、基地内で開かれた模型競技会での交流もあり、文献や資料もアメリカの模型雑誌などは流入したためである。模型航空教育の定義も、本来の1)のみとなった。 ライトプレーンに関しては、セメダイン社の全国大会(昭和30年~)や、小売商組合などが主催する模型業者の競技会(昭和25年~)には、多くの参加者があった。東京都科学模型教材協同組合指定機のA級ライトプレーンの年間生産機数は、昭和34年(1959年)がピークの50万機で、B級3万機、D級20万機、R級1万機など他機種も多かった。しかしながら1960年代後半には減少し、昭和44年(1969年)にはA級15万機、B級2万機、D級4千機、R級2千機である。その理由は、戦中に教育を受けた年齢層(1930~35年生まれ)の高齢化と、少年の興味を引く科学技術テーマの拡散と言える。模型航空界は社会的な追い風を失い、国(文部省)の手を離れたので、予算・指導人員・設備など、ほとんどゼロからの再出発であり、しばらくは厳しい状況であった。
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