日本におけるペルシア文学作品の翻訳
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オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』の翻訳 刹那的、虚無的、宿命的な世界観が現れているこの詩集は、1949年に岩波文庫版で登場した小川亮作訳ものが日本では特に普及している。それ以前にも、フィッツジェラルド(英語版)の英訳からのものであるが、蒲原有明の訳が明治41年に出版されており、大正11年には『ペルシア文学考』で知られた荒木茂が「中論公論」10月号で訳しており、昭和35年には沢英三訳が『世界名詩集大成・東洋』に掲載されている。小川亮作の解説部分に『ルバイヤート』の邦語訳の変遷が紹介されている。その他に、『世界文学大系アラビア・ペルシア集』に黒柳恒男訳が載っている。しかしながら、それぞれが典拠としたテクストの採用した数の差は激しい。 アッタールの『神秘主義者列伝』の翻訳 1998年国書刊行会より、藤井守男訳が出版された。本書はアッタールという詩人が残した唯一の散文の著作である。 アッタールの『鳥の言葉』の翻訳 2012年に東洋文庫より黒柳恒男訳が出版された。邦題は『鳥の言葉:ペルシア神秘主義比喩物語詩』である。 カイカーウースの『カーブースの書』の翻訳 昭和44年に黒柳恒男訳が東洋文庫より出版されている。これは、11世紀末葉の地方王朝の君主が息子のために著した一種の「人生読本」であり、当時のイラン人の生活規範、価値基準の実態を知る上で参考になるものである。 ゴルガーニーの『ヴィースとラーミーン』 1991年に平凡社より岡田恵美子訳が出版されている。 サアディーの『薔薇園』の翻訳 蒲生礼一による邦訳が東洋文庫より出版されている。他には昭和26年に沢英三による訳が岩波書店より出版されている。『薔薇園』は、当時の社会生活の様子や機微が散文と詩で織り成され、ペルシア人の機知が随所に光る著作であると同時に、ペルシア語の一つの規範として、中世以来、ペルシア語文化圏で最も膾炙した作品である。そのため、ペルシア語の学習という点でも、翻訳の意義は大きいといえる。 ジャラール・アーレ・アフマドの『地の呪い』の訳 1979年のイラン革命の前後から注目を集めるようになった作品。1981年に山田稔による訳がアジア経済研究所より出版された。 ネザーミー『七王妃物語』の翻訳 ネザーミーの五部作のうちの一つ。黒柳恒男による韻文訳が1971年に東洋文庫より出版されている。 ネザーミーの『ホスローとシーリーン』の翻訳 ネザーミーの五部作のうちの一つ。岡田恵美子による散文訳が1977年に東洋文庫より出版されている。 ネザーミーの『四つの講話』の翻訳 12世紀半ばにネザーミーによって著された著作であり、ペルシア文学研究の基礎的典拠として利用されてきたものである。昭和44年に黒柳恒男訳が東洋文庫より出版されている。 ネザーミー『ライラとマジュヌーン』の翻訳 ネザーミーの五部作のうちの一つ。岡田恵美子による散文訳が1981年に東洋文庫より出版されている。 ハーフェズの抒情詩の翻訳 ハーフェズの抒情詩はペルシア詩の最高峰とされている。これは黒柳恒男より昭和51年に邦訳が行われ、東洋文庫より出版されている。これまでにも抄訳は散見されたが、学問的に定着した版に基づき、初めの句から抒情詩の部分を最後まで訳した功績は大きいといえる。ゲーテの『西東詩集』のように、ハーフェズ詩の放つインスピレーションはペルシア語文化圏を越えて広がっており、この翻訳を通じて日本人もペルシア文学の普遍性に触れることが可能になった。現在は佐々木あや乃による翻訳・研究が進んでいる。 フェルドゥスィーの『王書』の翻訳 昭和44年に黒柳恒男訳が東洋文庫より出版された。その後岡田恵美子の散文体訳が岩波文庫より出版された。『王書』は大体6万句あるとされ、現在でも校訂が進められており、まだ、確定版というものはない。全編同一の韻律で書かれており、当時のペルシア語を研究する上でもまさに第一級の重要性をもったテクストである。人類の創世神話から始まり、民族的英雄ロスタムの登場する英雄時代を経て、サーサーン朝の歴代の記述が始まる歴史時代に入り、最終章のアラブ族に敗退するまでが、叙事詩体で綴られた大民族叙事詩である。しかし、日本にはその一部しか訳されていない。
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