新領土カリフォルニアでの金発見
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「フォーティナイナーズ」の記事における「新領土カリフォルニアでの金発見」の解説
1845年3月、民主党のジェームズ・ポークがアメリカ合衆国大統領に選ばれると、彼はその就任演説のなかで、メキシコ領であったネヴァダ、カリフォルニア、ニューメキシコの一帯、そして、独立国(テキサス共和国)であったがアメリカ人入植者の数が増加していたテキサス、さらにイギリスと共同統治していた北部太平洋岸の「オレゴン・テリトリー」と称される地域(現在のオレゴン州・ワシントン州・アイダホ州にわたる地域)の獲得を訴えた。 英米共同領有地であったオレゴン地域では肥沃な農地や毛皮獣を求めるアメリカ内部からの移住者が増加し、1846年永年の要求を貫いてイギリスとの間にオレゴン協定を結び、北緯49度をもってイギリス領カナダとの国境線を確定させた。 アメリカ人移住者たちによる併合要求のあったテキサス共和国では、1845年、ポークの就任を待たずに議会で併合が承認され、就任後正式にテキサス併合がなされた。テキサスがアメリカ領になったことからアメリカ・メキシコ両国間に国境紛争が生じた。メキシコは国境線をヌエセス川と主張したが、ポーク大統領はより南のリオグランデ川であると主張した。ポーク政権はメキシコに対し、テキサス領のさらなる拡大を認めること、カリフォルニア・ニューメキシコを2,500万ドルでアメリカに譲渡すること、この2点を要求し、それをメキシコ政府が拒否したことから、1846年5月、米墨戦争が勃発した。こうした背景には、アヘン戦争以降、英仏両国だけでなくアメリカもまた中国貿易への進出を企図し、その観点から太平洋沿岸の貿易港確保を求める声がしだいに高まっていたことが挙げられる。ジョン・フレモントは西部を探検してカリフォルニアを占領し、そこで独立運動を扇動した。 米墨戦争は、明らかにアメリカ側の挑発によってはじめられた戦争であった。ポーク大統領は、ウィンフィールド・スコットを指揮官とする大軍をメキシコに送り込んだ。スコット将軍は1847年9月にメキシコシティを陥落させて、この戦争の勝利に貢献した。米墨戦争の勝利と、それにつづく1848年2月2日のグアダルーペ・イダルゴ条約によって、アメリカは、1,825万ドル(1,500万ドルの現金と325万ドルの債務放棄)と引き替えにメキシコ割譲地を得た。これは、現在のカリフォルニア州・ネバダ州・ユタ州の全域とアリゾナ州の大部分、およびニューメキシコ、ワイオミング、コロラド各州のそれぞれ一部にあたる広大な領域である。アメリカはこれにより、アジア貿易の拠点たるサンフランスシコを確保した。 この頃、メキシコ領カリフォルニアに入植していたドイツ生まれの農場主ジョン・サッターがサッター砦を建設し、ニュージャージー州生まれの大工ジェームズ・マーシャルを使用人として用いていた。マーシャルは水力による製材を考え、サクラメント東方コロマのアメリカン川(英語版)に水車小屋を建設し、サッターの製材所建設計画を助けた。そして、グアダルーペ・イダルゴ条約成立直前の1848年1月24日、マーシャルはアメリカン川の川底に砂金を発見したのである。この時期が微妙で、もし金発見がもっと早ければメキシコからの干渉はきわめて厳しいものであったことが予想され、戦争のなりゆきも大きく異なるものとなった可能性がある。マーシャルの報告を聞いたサッターは当初、これを元手にした農業経営拡大を考え、当初は緘口令をしいて秘密にしていたが噂はすぐに広まった。当初、乾燥した岩と砂ばかりの荒蕪地で有用性に欠くという見方さえあった新領土であったが、金発見によって事態が一変したのである。サクラメントでの金発見の報告はやがてポーク大統領のもとにも届き、この年の12月、大統領はアメリカ連邦議会で新天地カリフォルニアでの金発見の事実を正式に発表した。これにより、年が明けた1849年にはカリフォルニアに金鉱脈目当ての山師や開拓者、すなわち「フォーティナイナー(49年者)」が大量に押し寄せることとなった。空前の「ゴールド・ラッシュ」が、ここに現れたのである。
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