故郷で教師生活
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1953年(昭和28年)3月、東洋大学国文学科を卒業した福島次郎は、帰郷し熊本県立八代工業高等学校に国語教師として勤務することになった。しかし、その直後に大水害で家屋が流失し、その後は姉が病気になったり、義兄がヒロポン中毒になったりなどの家庭崩壊があり、義父の中風の寝たきり、妹の極貧など、家族の混乱があった。 教師生活をしながらも、自身の生い立ちや家族をモデルにした小説を書き綴っていた福島は、1961年(昭和36年)に同人誌に連載した「現車(うつつぐるま)」で第3回熊日文学賞(熊本日日新聞主催)を受賞した。次郎は20歳の時に母親から、本当の実の父親は刑事で、御前試合に出たこともある柔道家であったことを告げられていた。妻帯者であった実父は次郎が産まれた直後に肺病で亡くなったという。 自作が文学賞を貰った嬉しさから、次郎は自費出版の単行本『現車』を東京にいる三島に送ると、「君が、小説をかくなんて、全くのおどろきだ」と謝礼と祝福の返事が来た。三島がなつがしがっていることに喜んだ福島は、1962年(昭和37年)春、上京する機会があった折に大田区の馬込東(現・南馬込)の三島邸を訪問し、すでに妻子のいる三島と久しぶりに再会した。 その日銀座に一緒に出掛けた帰りに三島から、「ぼくは、今、自分でもおかしいぐらい子供に夢中なんだ」、「君も思い切って結婚したらどう?」と勧められ、「今のぼくに何が世の中で大事かときかれたら、女房と子供だと答えるよ」と言われたという。女性に全く興味のない福島には、結婚など考えられず、何か独り取り残されたような淋しさを感じた。 その後4年間、福島は自作の掲載された雑誌『日本談義』を送ったり、構想中の作品「バスタオル」のあらすじなどを伝えたりした。福島は手紙で近況報告などのやりとりを交わし、三島から文学のアドバイスを受けた。1965年(昭和40年)の春から、八代市の街中に古い一軒家を借りた福島は、60代半ばになった母親と2人で暮らし始めた。母を恨んで拒絶したこともあった福島だが、貧しさの中で混乱する家族が助け合ううち、次第に心をほぐれていった。 1966年(昭和41年)8月27日、神風連の取材で熊本県を訪れた三島を荒木精之らと共に出迎え、行く先々に同行した福島は熊本城や八代工業高校を案内した。その後、前篇・後篇の合本『現車』を三島に送り、東京の出版社に口利きをしてほしい思いを託すが、三島は自衛隊体験入隊などで多忙となり、福島はその「ますらを道」の志に共鳴できずに疎遠ぎみとなった。 1967年(昭和42年)8月から、福島は長編自伝小説「塵映え」の連載を雑誌『日本談義』に書き始めた。これは自身のホモセクシュアルな性向を告白的に綴ったものであった。同年の11月18日、同性愛関連のこと(具体的にはそう書かれてなく推察による)を、手紙の中には書かないでほしいと、疑いを抱いている瑤子夫人の目に文面が触れることを厭う恐妻的な三島からの来信をきっかけに、以後福島は返信しなくなり文通は途絶えた。 当時の福島は感情的になっていたため、その手紙で『現車』の東京での出版意向を無視されたと早合点で思い込み、三島の皇国思想と合わない柔弱な自分が見捨てられたと勘違いしてしまったという。その後、三島は1970年(昭和45年)11月に楯の会の同志と共に三島事件で自決し、密葬の約1週間後に福島は三島邸に弔問に行った。
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