思想・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 09:55 UTC 版)
南都諸宗と真言密教の綜合 京都山科の地(現在の伏見区醍醐)に醍醐寺を開山する一方で、東大寺に東南院を建立して三論教学の拠点を築いたことは、聖宝の中観/般若空重視の態度という観点とともに、宗祖空海によって実施された南都大寺における儀礼の真言密教化という観点からも重要である。真言教学は、元来、華厳経の教説を基盤としている。言い換えると、華厳教学が秘密曼荼羅十住心論において第八(天台法華)ではなく第九住心に配置された意味を併せて考えれば、即身成仏義の重重帝網(無碍)が、一即多・多即一という華厳教学を象徴的にする哲理を重要な基礎として、実践作法の理論的基礎に展開したとも考えられるからである。『この世界は仏の身体である(六大)』として、沈黙する存在とされていたビルシャナ仏が自ら説法すると宣言した意味(法身説法)は大きい。方便を極めて重要視する密教信仰において、理論から実践への橋渡しをすることは、大乗仏教興隆の観点からも望ましいと思われる。この点に聖宝が宗祖空海の直系を自覚して、東大寺における活動を推進した根本義が表れていると見るべきである。また曼荼羅それ自体が、華厳経の教説『普賢菩薩の行の総体』を基盤としていることにも注意すべきであろう。 当山派修験道と真言密教 聖宝を祖とする当山派修験道においては、一方で『修験恵印総漫拏羅』を通じて表現された不二一乗の世界観をもって大日如来による秘奥の説法を示すものとする。一般に真言密教においては、金胎両部の曼荼羅を通じて、密教宇宙の理と智に係わるそれぞれの『大(法身大日)・三(意密)・法(口密)・羯(身密)』パノラマで、或いは六大(体)・四曼(相)・三密(用)などの多元的な視点と、重重帝網(無碍)という統合的視点から大日如来の教えを展開/把握することが知られるが(即身成仏義)、聖宝がこの時代に理と智を一元論的な手法をオモテにして示していることは、修験道という日本的アニミスティック神霊信仰の点から注目される。これは平安後期の覚鑁興教大師以降、『金剛界/胎蔵界』という並立的表現方法が顕著となる以前の出来事であり、日本固有の信仰観について、後の応永の大成を頂点とする二而不二/不二而二に係わる各法匠の立場/背景、さらには日本の密教思想史、殊に事教二相を実践/検討する上で銘記するべき事象として理解することを求められよう。 聖宝が遺した『実修実証』の言葉は、当山派修行者の実践過程において、常に護持すべき修験道の心とする。その実修根本となる『最勝恵印三昧耶法』(恵印灌頂)は、『理智不二界会礼讃』の具現化であり、正嫡の観賢だけでなく、大和鳥栖真言院鳳閣寺において貞崇に授けたと伝える。当山派恵印法は、龍樹菩薩による霊異相承の伝から峰受法流とも呼ばれ、本山派峰中法流とも対比されるが、両派に共通する肝心は、実践第一を旨とし、世間の言語/思考によるところの一切戯論を断絶して、山岳でも人里でも、ひたすら修行に専念することにある。このことは、神秘直感を通じて般若空の真理に直参せんとした大乗仏教中観派の法匠たる龍樹菩薩の教えに通じるものである。また理智不二礼讃によって明らかにされる清浄菩提心に向かう祈りの実践は、真言第三祖/龍猛ナーガルジュナの直系を自覚するものであり、同時に、全ては普門総徳大日如来から生み出される別徳諸仏諸菩薩の理趣を体得せんとして在る真言密教への篤信と確信に繋がるものである。
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