強制ゲルマン化とホロコースト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:08 UTC 版)
「ヴァルテラント帝国大管区」の記事における「強制ゲルマン化とホロコースト」の解説
西部(ポーゼン州)には、1910年のプロイセン国勢調査時点でドイツ語を母語とする者が総人口の約37%を占めていた。ヴェルサイユ条約の過程で、ポーゼン州がポーランドに編入されると(1919年)、多くのドイツ人がこの地域から去り、第二次世界大戦の初めには総人口の15%未満となっていた。同時に、ポーランド人をできる限り多く入植することを目的に、工業化政策が開始された(特にポズナニとブィドゴシュチュ地域)。 ヴァルテラントの東部は、1919年以前にドイツ領であったことはなく、18世紀にドイツ語話者の集落がわずかに点在するのみであった(ハウラント人(ドイツ語版))。この他には、ウッチ地域の少数ドイツ人(ドイツ語版)は、1850年頃の織物工業ブーム(「東のマンチェスター」)に当地に移住していた。しかしドイツ人、または、ドイツ人という自覚をもつポーランド人は、1939年のヴァルテラントの領域では総人口の3%にも満たなかった。ナチスの政策がヴァルテラントで目標としたのは、この地域をできる限り早く「ゲルマン化」することであった。 西部では、まずポーゼン蜂起(ドイツ語版) 以前の時代の民族状況を再確立しようとした。ドイツ人の帰還者(Rücksiedler)のためにポーランド管理下で収用された農地の回復(返還)だけではなく、同時に1919年以降に定住したポーランド人を排除することであった。ドイツ人が人口で大多数となるべく、ドイツ人の再定住が促進された。これのために造られた用語がUmsiedler(ドイツ語版)であった。 さらに、いわゆる「ドイツ民族リスト(ドイツ語版)」を使用した激しい同化政策が行われた。住民は様々なグループに分類された。 民族リストI:「自覚ドイツ人(Bekenntnisdeutsche)」。戦前に「ドイツ民族性(deutsches Volkstum)」を自認していた者(民族ドイツ人)。 民族リストII:ドイツ系(Deutschstämmige)。家族がドイツの言語と文化を固持していた者。 民族リストIII:ナチスの政策が撤回されない限りという意味での「ドイツ化可能な人間」。(ドイツ化された者(Eingedeutschte)) 民族リストIV:旧帝国(Alt-Reich)での再教育(Umerziehung)の後、「人種判定(Rassegutachten)」に従い、ドイツ化可能な「保護帰属者(Schutzangehörige)」とされた者(再ドイツ化された者(Rückgedeutschte))。 民族リストV:ドイツ化が不可能な者 「ドイツ化が不可能」と分類された者(特にユダヤ教の信者)は、SSによってヴァルテガウから総督府に移送された。 この政策実施の責任者は、帝国保安本部の長、ハインリヒ・ヒムラーであった。ヒムラーは10月7日にヒトラーによって「ドイツ民族性強化帝国委員」に任命された。1939年10月30日に、ヒムラーはすでに当地域の「ドイツ化」を命じている。この目的のために、複数の計画が段階的に策定された。 いわゆる「第一次近時計画(Erste Nahplan)」が1939年12月17日まで実行され、8万7,883人(いわゆる民族ポーランド人とユダヤ人)が総督府へ移送された。 「中間計画」の過程で、1940年2月10日から3月15日までに合計4万128人が移送された。 最大の移送は「第二次近時計画」の枠内で行われ、合計12万1,594人が対象となった。「第二次近時計画」は1940年5月から1941年1月20日まで実施された。 さらに1941年3月15日まで1万9,226人が総督府に送られ、総計28万606人が移送された。最大65万人と推定する歴史家もいる。 移送はSDの監督の下、また憲兵隊、保安警察(Schutzpolizei、民族ドイツ人自衛団(ドイツ語版)、SA、SSの各部隊が支援した。移送された人々は、最初に特別に設置された一時収容所(Übergangslager)に到着し、最大のものはポーゼンの「グウフナ(ポーランド語版)」地区にあった。これら収容所の生活環境は悪く、収容者はしばしば飢餓、風邪、病気、不良な衛生状態に苦しんだ。この後、通過収容所からポーランド総督府の他の収容所に移送された。移送には主に貨車が使用された。多くのポーランド系ユダヤ人にとって、この移送の行き着く先はドイツの絶滅収容所であった。移送者が全財産を荷造りする時間は、多くは1時間から24時間しかなかった。主に暖かい服、毛布、飲用・食用容器、数日分の食料、わずかな現金だけであった(1940年12月以降:ポーランド人は50ライヒスマルク、ユダヤ人は25ライヒスマルク、また身分証の所持が認められた)。荷物の重量は大人1人当たり当初12 kg、その後25 kg、または30 kgで超過は認められなかった(子供は各半分であった)。移送への抵抗は、武力をもって鎮圧された。 ポーランド人とユダヤ人の移送に加え、ホロコーストの一環としてヴァルテラントには、いくつかのユダヤ人ゲットーが設置された。最大のゲットーは、1940年2月に設置されたリッツマンシュタット・ゲットーであった。ロッチュ(1939年から1945年はリッツマンシュタット(Litzmannstadt)と改称)のユダヤ人ゲットーでは、合計16万人のユダヤ人が非人道的な条件で生活することを強いられた。1944年にゲットーは解体され、住民の大部分はドイツ本国での強制労働、または絶滅収容所に送られた。当初はヴァルテラントにあったクルムホーフ絶滅収容所、後にはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移送された。 クルムホーフ絶滅収容所は、1941年12月にアインザッツグルッペの指揮官、ヘルベルト・ランゲが設立し、1942年からはハンス・ボートマン(ドイツ語版)が指揮していた。同収容所の設置以前、ランゲ特務隊(Sonderkommando Lange)はガス車(ドイツ語版)を使用してに数千人もの精神障害者を殺害していた。1943年に暫定閉鎖された後、1944年にリッツマンシュタット・ゲットーを「処分」するために再稼働された。推計によれば、1941年から1944年にクルムホーフ絶滅収容所では合計15万人が殺害された。 「ポーランド人疎開(Polenevakuierung)」または「転住(Aussiedlung)」:駅に向かうポーランド人、グネーゼン近郊シュヴァルツェナウ(ドイツ語版)、1939年 「ポーランド人収容所(Polenlager)」、ゲルゼンドルフ(ドイツ語版) (サヒルネ、ウクライナ)の配分地点(Verteilerpunkt)、1939年 ポーランド人の「転住」、ブウォニェ(英語版)、1939年 ポーランド人の「転住」、ラードゥンゲン(ドイツ語版)、1939年 ユダヤ人のリッツマンシュタット・ゲットーへの「転入」。1940年3月
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