強制を否定する証拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 04:40 UTC 版)
「沖縄戦における集団自決」の記事における「強制を否定する証拠」の解説
1985年7月30日付神戸新聞では「絶望の島民悲劇の決断」「日本軍の命令はなかった。」という大見出しの下、軍命令はなかったとする島民の証言を掲載し、座間味島の集団自決は「米軍上陸後、絶望した島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道した。そこには宮城初枝が「梅澤少佐に自決を求めたが、「最後まで生き残って軍とともに戦おう」と武器提供を断られた」という証言が掲載されている。 慶留間島の大城昌子によれば「前々から阿嘉島駐屯の野田隊長(海上挺進第三戦隊長・野田義彦少佐)さんから、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にはそのようなことは関係ありません。ただ、家族が顔を見合わせて、早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです」、「米軍にひきいられながら、道々、木にぶらさがって死んでいる人を見ると非常にうらやましく、英雄以上の神々しさを覚えました。(自分がなさけなくて)しまいには、死人にしっと(嫉妬)すら感じるようになり、見るのもいやになってしまいました」と述懐している。 また、2008年には座間味島で梅沢少佐のもとで防衛隊員であった宮平秀幸が梅澤命令説を否定する新証言を行った。宮平によれば、1945年3月25日10時ごろ、野村村長や村三役(宮里盛秀助役)、女子青年団の宮城初江らが、梅沢少佐のいる本部壕を訪ねて「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英に獣のように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」「すでに住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」と梅沢少佐に頼み、自決用の弾薬や手榴弾、毒薬などの提供を求めたが、梅沢少佐に断られた。そのため同日午後11時ごろ、忠魂碑前に集まった約80人の住民に対し、野村村長は「梅沢少佐に自決用の弾薬類をもらいに行ったが、もらえなかった。皆さん、自決のために集まってもらったが、ここでは死ねないので、解散する」と話し、住民たちはそれぞれの家族の壕に引き返したという。これらのやりとりを宮平秀幸は「すぐ近くで聞いていた」とし、また彼は梅沢少佐の元部下から生前に送られた手記を保存しており、そこにも、まったく同じことが書かれていると語っている。 しかし、大江・岩波沖縄戦裁判の大阪高裁(2008年10月31日判決)は、宮平秀幸新証言は「自らが述べてきたこととも明らかに矛盾し、不自然な変遷があり、内容的にも多くの証拠と齟齬している。」「明らかに虚言であると断じざるを得ず、到底(証拠)採用できない。」とした。最高裁(2011年4月21日判決)も高裁判決を支持した。
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