延安に渡るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 03:03 UTC 版)
「ノーマン・ベチューン」の記事における「延安に渡るまで」の解説
ベチューンはオンタリオ州グレイヴンハーストで医師の祖父と牧師の父親の下に生まれた。1909年、トロント大学で生理学と生化学を学び始め、1912年にトロント大学医学部へ進学、医師への道を歩みだしたが、1914年に第一次世界大戦が勃発、衛生兵として出征した。そこで彼は銃弾に傷ついた多くの兵士を治療した。1916年に大学を卒業し医師となると、英国海軍に従軍し、大戦終了後はそのまま英国に残ってロンドンとエジンバラで外科の卒後研修を行った。1922年、研修を終了しエジンバラの外科専門医の資格を得ると、デトロイトに移住する。ウェイン州立大学で外科医としての腕をめきめきと上達させると同時に、教育者、社会活動課としても名をあげる。1926年末、自身が結核に罹患していることが発覚。ニューヨークのトルドー療養所へ入院する頃には、左上葉の結核は深刻な状況となっていた。療養所では安静を中心とした治療を勧められるも、べチューンは19世期末にイタリアの外科医が提唱した、人為的に引き起こした気胸による治療を試せないかと主治医達と話し合った。最終的には内科医の一人が穿刺を行うが、誤って緊張性気胸を引き起こすも、べチューンは幸いなことに完全に気胸から回復した。以後静養を続け、その後の人生で低栄養状態に陥ることがあっても再発せずに経過した。1928年、べチューンはモントリオール・マギール大学の外科学教室での、更なる胸部外科の研鑽を願い出る。ここでべチューンは16の医学論文と、今日も使われる肋骨用の剪刀を開発する。麻酔の負担をできる限り少なくし、院内の輸血備蓄を整え、手術の侵襲をできる限り少なくする工夫を凝らした。臨床の現場では患者思いの医師としてよく知られるようになり、年間250から300例の手術をこなした。ベチューンは英国で外科医の研修をしていたため、実はケベック州での免許は持っていなかったが、上司達の計らいにより手術を続けることができた。べチューンは元々、療養所にいた頃から貧困さえ取り除ければ結核は克服できると感じていたが、1932年頃、サクレクール病院で働くようになってからは患者たちを無料で治療するようになった。次々とやってくる患者を前にベチューンは医師としての限界を思い始める。いくら患者を治療しても貧困の中にあれば結核は容易に蔓延し、人々の命を奪っていく。結核を根絶するには医療活動よりも貧困の撲滅が不可欠であり、全てのカナダ国民が貧富の差にかかわらず医療が受けられるよう、医療制度そのものにも抜本的改革が必要と考え始めるようになった。1935年夏、レニングラードで行われた国際生理学学会に参加したベチューンは学会のスケジュールをよそに街を視察、そこで社会主義により結核がコントロールされている様子にいたく感銘を受ける。帰国後の10月、カナダ共産党に入党し、12月にはカナダの医療改革を訴える社会医学の勉強会として、様々な職種の専門家からなるグループを立ち上げ、全てのカナダ国民が最良の医療を受けられる制度を訴えた。そのマニフェストはケベック州の首長やモントリオール市長にも届けられたが、急進的すぎるとして反応は芳しくなかった。1936年、スペイン内戦が勃発すると反ファシスト側として参加した。ベチューンはこの戦線で世界初の移動輸血システムを立ち上げ、戦場で積極的に輸血をしながら負傷兵の治療にあたり、大いに成果を上げる。
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