師・大山倍達との確執について
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「芦原英幸」の記事における「師・大山倍達との確執について」の解説
1970年代に週刊少年マガジンに連載され人気を博した、大山倍達の半生と極真会館の発展を描いた劇画『空手バカ一代』(原作:梶原一騎)の後半部(作画:影丸譲也)では、準主役級の扱いで頻繁に劇中に登場していた。創作で『ケンカ十段』の異名やエピソードが実話風に描かれ、連載中は主人公の大山に匹敵する人気を誇っていた。 その結果、愛媛県の芦原の下には県内外から入門希望者が殺到し、芦原道場は松山駅前に新道場を構えるまでに成長したが、大山は自分が主役であるはずの「空手バカ一代」劇中で弟子が活躍し人気を得ていることを快く思わず、梶原に苦言を呈し芦原との間にも軋轢が生まれた。支部長会議の席では、芦原が大山の発言を無視して一触即発の状況になり、真樹日佐夫(梶原の実弟)が慌ててなだめるという緊迫した場面もあったという。真樹は著書「大山倍達との日々~さらば極真カラテ!」でも、それ以前から支部長会議で芦原が大山に再三異議を唱える、合同稽古でも芦原が大山の指示を慇懃無礼な態度で拒否するなどの行為で両者の間に確執があった事を述べている。 極真会館を永久除名となった理由について、大山は自著『わが空手 求道万日』で、支部が本部に申告する道場生の数を芦原側が少なく申告し、自分達の支部とバランスを取るために他の支部長にも本部に報告する道場生の数を調整する様持ちかけた等の行為があったとしている。同書では芦原の名は出さず匿名にしていたが、後年高木薫が発表した『わが師 大山倍達ー1200万人への道』では、件の匿名の支部長が芦原であったとしている。芦原側の言い分としては、『空手バカ一代』人気に影響されて入門してきた生徒達はすぐに辞めていくため初めからカウントせず、そのために本部に申告しなかったのだという。 また、近年になって芦原の元門下生がインターネット上にアップしたいくつかの資料から、実際は除名以前から芦原道場は本部を半ば無視したような独自の経営に徐々に移行しており、「極真会館芦原道場」と並行して「芦原会館」の名称も既に使われていた事が明らかになっている。 また、小島一志著「芦原英幸正伝」では、1980年3月の支部長会議で芦原に対する永久除名処分が通告され、これに激昂した芦原が列席していた支部長達や大山に対し、常識ではあり得ない罵詈雑言を浴びせて威嚇し大山を含めた全員を震え上がらせ、相談役の柳川次郎に嗜められて会場を後にしたという表現が為されている。なお、同書では極真会館門下生の佐藤俊和が件の支部長会議で芦原の剣幕に大山が、佐藤が見たことがないほど怯えていたとの証言の記述があるが、『最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間 (原田 寛 著)』では、佐藤が著者に、自分は支部長ではないので当の支部長会議に出席していない、取材も受けていないと憤慨し否定している(同書249ページ)。芦原本人は、自著『空手に燃え空手に生きる』等にて、そのようなけんか腰の態度はしておらず、同支部長会議の席で極真会館退会の意向を示し、「すぐに辞めるのは(極真に)迷惑がかかるからあと一年で辞めさせてほしい」と申し出て松山に帰ったところ、半年後に極真会館側が一方的に全国紙を使って「芦原英幸の永久除名」を発表した、と記している。 芦原英幸著「芦原英幸 いのちの言葉」より 「 ブームの極真空手を踏み台にして、自分自身を売り出そうという者たちにとって、私は目障りな存在だったんだな。少しずつではあるが、会館本部と私の距離が、地理的な距離以上に遠ざけられだしたんだよ。それでね、昭和五十三年(原文ママ)三月に東京で開かれた支部長会議に出席した際、「ここは、もう自分がいてもいなくても同じだ」 と、その場の空気にそう感じた。会議中、頭の中をいろいろなことが巡ってね。組織に迷惑をかけないためには、どうするのがいちばんいいのか、あれこれ考えてたんだけど、ふっと私一人がきれいな形で辞めればいいんだ、と思ってね。四国で細々とでいい、自分自身が考えている空手を追求して、一人でもいいから、信頼してついてきてくれる若者にそれを伝えていこう、と肚を決めた。会議の中で、 「あと一年で辞めさせていただきます」 と、そう言い残して四国に帰ったんだ。それから半年後の九月に、一通の手紙が組織から届いたんだ。 「芦原英幸を永久除名処分とする」 という通達状だったんだよ。きれいな形で辞めたかったんだけど、そうはいかないまでに組織が大きくなってたんだ。それから一週間後に全国紙を含んだ新聞にね、私を永久除名処分にするという極真会館からの広告が掲載されてね。まあ、イメージからすれば、私がいかにも悪いことをやって除名になったような広告ではあったな。でもね、その広告を見るとね、大山館長の「師を乗り越えて雄飛せよ」という最後の教えのように思えてね。大山道場に入門したのが、昭和三十六年九月で、二度とその門をくぐれなくなったのが、昭和五十五年の、これも九月だった。 (84~85ページ) 」 また、同書では前述の松山での新道場を建てた際にも(極真)総本部から、「立派すぎる」「それ程の規模の道場を建てるカネがあるならもっと本部に送れ」とのクレームが来た事を語っている。 極真会館を退会した直後、ある後援者に「これで大山とは師でも弟子でもなくなったな」と言われた際に「私の師匠は今も昔も大山倍達です」と静かに返したという逸話が、芦原の逝去を伝える『ゴング格闘技』に掲載された。
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