師匠らと衝突、突然の廃業
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「北尾光司」の記事における「師匠らと衝突、突然の廃業」の解説
1987年12月27日、6代立浪との若い衆に関する意見の対立から部屋を脱走、そのまま「(破門同然の)廃業」という事態になった 。 発端は、同日の夜に部屋の若い衆が「『あんなちゃんこが食えるか』と横綱(双羽黒)が言っている」と6代立浪に言いつけたことだった。6代立浪の主張によれば、ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は、仲裁に入った女将を突き飛ばし、「二度と戻らない」と言って部屋を出て行ったという。立浪は「絶対に許せない」「(「もう双羽黒は土俵に上がらないという結論になるのかという質問に)そういう風になると思う」と述べ怒りをあらわにした。一方、12月30日夜のニュースステーションでは、「立浪親方夫人を殴ったというのは事実無根」という双羽黒の談話を伝えた。後年の北尾の著書では「ちゃんこが美味い・不味いの問題ではなく、若い衆が料理を作れないほどたるんでいることで、日頃から親方に再三指導するよう求めてきた。その日もその事を言ったら全く取り合ってもらえず、果てには逆に若い衆に謝罪するよう求められた。それが納得できず、部屋脱走を試みるも女将が止めに入ったため、それを振り切る形で部屋を後にした。すると親方がそれを見て『暴力を振るった』と新聞記者を煽って大騒ぎになった」と主張している。 後年、北尾が亡くなった際には主要な一般紙の多くが「ちゃんこの味付けを巡って衝突した」という6代立浪の主張について触れておらず、その説を支持も否定もしていない。ただ、日本経済新聞、朝日新聞などは女将を突き飛ばしたという主張を肯定している。 部屋を出て行った双羽黒は都内のマンションの一室に籠城していたが、部屋付きの11代武隈が見つけて部屋に戻るように説得するも失敗、その間6代立浪が協会へ双羽黒の廃業届を提出した。この事態を受け、同年12月31日に緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業届を受理することを正式決定した。出席者の中には、退職金、功労金が支給されない「除名」を主張する向きもあったが、「まだ若く、将来を配慮して」「廃業」という形が採用された。また立浪が当面謹慎および3ヶ月間3割の減俸処分、理事全員が3ヶ月間2割の減俸処分を決定した。春日野理事長は「協会の恩情だ」と強調し、「これからの人生を考えると、何をやっていくつもりなのか」「何も功労にあたることはしていないよ」と吐き捨てた。横審委員長の高橋は「破門になると思っていたので、廃業というのは協会の寛大な措置と受け止めている」「横審が双羽黒の横綱昇進に賛成の答申を出したことはあの時点では間違っていなかったと考えている」とコメントした。 同日午後4時ごろ、双羽黒はマンションから出て都内の通信社に赴き記者会見を開き、廃業の決定について「悲しいことかもしれませんが、決定には従います」と述べた。失踪騒ぎについては「親方と相撲道のことで口論になった。私と師匠の考え方が食い違い、師匠にはついていけないと思った」「幕下のころから考え方が違うと感じていた」「私が部屋の若い衆に意見をすると、親方は『オマエは意見を述べる立場じゃない』と言った。横綱である前に私も人間。人間として親方を許せなかった」「ただ、この世界は、師匠に逆らった時点でもう弁解の余地はなかった」と悔しそうな表情で述べた。角界からの追放については「九年間、自分なりにがんばり、燃え尽きた。横綱の名をけがしたことはよくなかったが、自分の相撲道を貫き通したと思う」「好きな相撲を何らかの形で続けたい」とした。今後のことを問われると「実業家にもなりたいが、タレントとしてもやっていく。取材ならギャラを払ってほしい」と発言し、周囲だけでなくマスコミ関係者からも大バッシングを受けた。また、ニューヨーク・タイムズには「日本人にとって怒りを爆発させることは無作法であり、無礼者は面目を潰される」と評論されたほど、世界を騒がせたニュースとなった。 既に発表されていた1988年1月場所の番付には、双羽黒の名が東張出横綱に残っていたが、横綱在位数は僅か8場所(番付上では9場所)と、琴櫻・三重ノ海と並ぶ最短記録2位タイの短命横綱に終わった。ケガや体力の衰えで引退したのではなく、師匠と喧嘩した挙句の廃業とあって世間の見方は非常に厳しく、双羽黒への同情論はほとんど聞かれなかった。一方、野坂昭如など僅かに双羽黒を支持する者もいた。一方で立浪についても「中学を出たばかりで全く世間知らずの少年を「部屋のドル箱」とばかり、寄ってたかって過保護に育ててきたツケが回ってきたといえよう」として、その管理能力が問われた。 横審委員長の高橋は、双羽黒の廃業を受けて「今後は「大関で二場所連続優勝」とした横綱推薦内規の第二項以上に「品格、力量抜群」とした第一項を絶対的に尊重していきたい」と述べ、さらに1988年1月場所後の横審でも「横綱昇進について、いやが上にも慎重でありたい」と申し合わせた。一方、横審委員の稲葉は、廃業決定前夜の取材に対し「情状酌量の余地はないが、もし本人にやる気があれば、しばらく謹慎させ、鉄砲、四股の基本からたたき直す道を考えてやってもいいのではないか」と述べた。 「横綱#横綱をめぐる議論」も参照 1988年3月には東京都内のホテルで断髪式が行われたが、同年3月場所の直前だったため関係者や後援会からは一人も出席せず、最後の止め挟を入れたのは父親だった。この廃業が事実上の「破門」であることは、6代立浪と双羽黒の双方が認めている。
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