居留地以前の部族支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 08:25 UTC 版)
「ウインド・リバー・インディアン居留地」の記事における「居留地以前の部族支配」の解説
今日のウインド・リバー・インディアン居留地は、ショショーニ族のグレートベースン文化とグレートプレーンズの部族文化の歴史的境界地域に位置している。 近年、多くの部族によって、この地域は狩猟場や争いの舞台となってきた。 1800年以降、ウインド・リバー流域において、歴史上は最初にショショーニ族が、その後、クロウ族、シャイアン族、アラパホ族、ブラックフィート族、ラコタ族が加わったと記録されている。 後者の部族は、地政学的な力と食料資源のためにこの地域にやって来た。1800年以降の猟師の記録には、ウインド・リバー盆地において、地平線に巨大な塵の雲を上げながら逃げる何万ものバイソンの巨大な群れが描写されている。 ショショーニ族は、1700年代にワイオミング州西部の大部分を支配していた。これは、スペイン移民と南西部の商人から馬を確保した最初の北部の部族だったからである。(アラパホ族は、リオグランデ川沿いのスペイン移民入植地とミズーリ川沿いの農業部族との間の貿易を通じて、グレートプレーンズに馬を導入するという同様の役割を果たした)ブラック・フィート族のような他の部族が馬を獲得し、争奪を企てたため、現在のワイオミング州でのショショーニ族の支配は減少した。 1820年代、ショショーニ族は、今日のウィンド・リバー・インディアン居留地からウィンド・リバー山脈のすぐ北にあるグリーン・リバー流域のロッキー・マウンテン・ランデブー(英語版)における毛皮取引で、銃器も取引することで権力を取り戻し始めた。 毛皮取引の開始により、ショショーニ族は再びスネーク川とグリーン川渓谷から東に力を及ぼし、平野部でバッファローを狩ることができるようになった。 毛皮取引によりグリーン川流域のバイソンが減少し始めたため、彼らはますます東へ狩猟域を広げる必要があった。 1830年代および1840年代には、プラット川、パウダー川流域、およびララミー平原での争いとして記録されている。 ショショーニ族は、ウィンド・リバー盆地を、冬の放牧地として、またはスイート・ウォーター、ビッグホーン盆地、ビッグホーン山地、またはパウダー・リバー盆地の狩猟場へのルートとして、定期的に使用していた。 別の見方をすると、1600年代以降のスー語族とアルゴンキン語族の西部への移住は、平野とロッキー山脈中部の伝統的なショショーニ族の領地に新しい人々の流入をもたらした。これらの中西部、ミズーリ川、五大湖の部族のうち、グレートプレーンズに移住する最初期の部族には、クロウ、シャイアン、アラパホ族が含まれるが、いくつかの文献では、アラパホ族がグレートプレーンズを1000年間占領していた可能性に言及している。これらの部族の大部分は当初、ウインド・リバー地域のさらに北と東のグレートプレーンズに住んでいた。強力で多数のラコタ族は、アメリカ人の拡大によって西に押しやられ、先に移住した部族と衝突し、さらに西にロッキー山脈に移動した。 1800年代半ばまでに、これらの部族はすべて、現在も争われているウインド・リバー・バレーに侵入した。 ショショーニ族の地名が、ビッグホーン盆地に数十の名前としてつけられており、ウインド・リバー盆地よりも、伝統的なショショーニ族領地の一部として東の土地の詳細な知識を示している。 同様に、アラパホ族はウインド・リバー盆地に精通しており、ウインド川/ビッグホーン川をホティー・ニイチーと呼んだ、これは「山羊川」を意味し、この地域の家畜の群れにちなむものである。 1800年代半ばまでに、クロウ族はウインド・リバー・バレーとアブサロカ山脈を主に支配し、この地域を越冬地として利用しており、その地域に入ってきたショショーニ族と戦った。1830年代にワシントン・アーヴィングによって執筆された『キャプテン・ボンヌヴィルの冒険 The Adventures of Captain Bonneville』の中で、クロウ族長のアラポイッシュは、ウインド・リバー・バレーを、馬の飼料用のハマアカザとポプラの樹皮のある越冬地、と述べている。 一方、1850年代にワシャキー酋長らはウインド・リバー・バレーのクロウ族条約の土地を避け、ヘンリーズ・フォークやイエローストーンのようなクロウ族の場所や移民の道から離れて狩りをすることを好んだ。 1851年のララミー砦条約下、公式に担保されていたウインド・リバー・バレーのクロウ族の優位性は、クローハート・ビュートにおいて一対一の戦いでワシャキー酋長がクロウ族酋長を敗北させたときに、事実上終わりを告げた、1850年代後半から1860年代初頭にかけてのことである。 ユタ州、アイダホ州、モンタナ州において移民の道と白人定住の増加により、狩猟が困難になってきたことで、ワシャキーはクロウ族に挑戦することを選択したようである。これによって、ワシャキーは武力行使してアメリカの国益に反することなく、クロウ族に占有されていたウインド・リバー・バレーを、ライバル部族から狩猟場を確保できる唯一の場所として、残した。 ウインド・リバーのクロウ族の遺産は、ミドル・フォーク・ポポ・アジー川の名前に残っている。その川は、poepoe-zhuhと呼ばれ、「ドブンという音のする川(plopping river)」のオノマトペであるクロウ族の言葉「Poppootcháashe」に由来している 。さらに西にあるグリーン・リバーに対するクロウ族の言葉は、「Chiichkase Aashe of Seedskadee Aashe」で、「セージ・メンドリ川」を意味する。 1868年のブリッジャー砦条約会議(英語版)は、ウインド・リバー・バレーをショショーニ族の排他的領土として事実上指定し、1851年のクロウ族のララミー砦条約における権利に取って代わった。
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