小池清のエピソード
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「アップダウンクイズ」の記事における「小池清のエピソード」の解説
番組のルーツである『近鉄パールクイズ』で1955年10月に入社2年目(1954年毎日放送〈当時は新日本放送〉入社)の小池が司会を担当することになり、同時に10問正解で賞金5万円となる一方、3問誤答で失格・退場となるルールに変更された。小池はこの『パールクイズ』にて臨機応変でスピード感あふれる進行ぶりを発揮し、全国区の知名度になった。その後『パールクイズ』の当時のスタッフが「これをテレビで放送したらもっと面白いだろう」と言ったのが番組立ち上げの発端だった。 『パールクイズ』、『アップダウンクイズ』ともに、番組構成と放送時間と編集の関係上、解答者へのインタビューはほとんど行わないほど慌しかった。 当時「自分は不器用だから」と言っていたのに対し、当時のプロデューサーは「そんなことはない。結構勉強家で、記憶力もあり、昔出た問題や出場者、シルエットゲストまでよく覚えていて、驚きだった」と語った。 司会者とは言え「あくまでも主役は解答者の皆さんで、私は裏方みたいなもの」(『TVガイド』でのインタビューより)や「良い意味でのマンネリが定着している。シンプルで内容の多様性が受けていると思う。司会者の人柄をおっしゃってくれる方もいるが、司会者が目立つような番組ではいけない。目立たない司会者ということを最初から心掛けてきた。アップダウンのルールやシステムはもう完成品で、われわれとしては繰り返してきただけ。それを長持ちさせたのは結局、解答者だ。解答者は画面そのものが明るくなるような見ていて楽しくなるような方でないといけない。スタッフだけで出来るものではなく、出場者の個性で持っていると思う」(週刊誌のインタビューより)と語っていた。 スポンサーがロート製薬であり、製薬会社提供番組の司会者が病気で番組を休むと洒落にもならないという経緯から健康に留意し、出題者時代から20年間・1004回の間一度も休むことなく続けた。 解答者が問題の途中で早押しボタンを押すと「いいんですか?」と発言することが多かった。 小池は大半の時間帯、もの静かに番組を進めているが、ゴンドラが二段階以上上がったり7 - 8段目に上がったりするなど盛り上がる場面では声を張り上げることが多かった。 クイズ終盤で、必ず「残り時間○分少々!」とコールし、そのあとは不正解がない限りリアクションなく次々と問題が出され、最終問題になると「あーっ、時間なくなっちゃった!これが最後の問題!」とアナウンスしていた。ただし、末期では最終問題になると電子合成音のチャイム(このチャイムは西郷時代も数か月使われた)が流れ、「あーっ、チャイムが鳴ってしまいました。ここでラッキークイズです」とアナウンスしていた。 解答者で現役時代の輪島大士が出た時には、ボタンを押したものの答えが出て来ず「えーと…」と呟いたところ「はい正解!」とゴンドラがアップ。きょとんとする輪島。実は問題の正解が「江戸」で聴き間違いと分かり、後から聞いた小池が「えー?」と驚いたとの逸話がある。 小池の司会の最終日となった1983年9月25日放送回は、「20周年記念・20歳の青春」と題して、放送が開始された1963年生まれの者を出場者にして行われた。 同回のシルエットゲストは、1967年2月のシルエットクイズ第1号ゲスト・ファイティング原田だった。 本番で使われた問題の多くは第1回のものが流用された。福岡県の男性出場者が、小池時代最後の10問正解達成・ハワイ旅行獲得者となった。 エンディングでは小池・佐々木と出場者、ゴンドラギャルズがゴンドラ前に並び、小池がお別れの挨拶を述べた後、佐々木から花束が贈呈された。この時、佐々木が涙ぐんでいた。その後新しく司会となる西郷がジャンクションで登場して抱負を述べ、10月からの新しいゴンドラ前で小池とがっちり握手を交わしていた。 なお、小池は司会勇退から28年半後の2012年4月28日、80歳で永眠した。翌日(4月29日)の『毎日新聞テレビ夕刊』と5月1日の『ちちんぷいぷい』(小池が前年9月末まで水曜日の紀行ロケコーナー「前略、旅先にて」のナレーターを担当、いずれも関西ローカルのテレビ番組)では、小池の訃報を伝える際に「15周年記念全国大会・決勝大会」冒頭の映像を流した。
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