審査経緯
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「九八式二十粍高射機関砲」の記事における「審査経緯」の解説
陸軍技術本部は1932年(昭和7年)6月に審査会議を開き、各方面の意見を集めて必要な火器の調査を行なった。この件は6月13日の審査会議を経て同月30日の軍需審査会で可決され、昭和8年9月14日陸密第456号において以下のように研究方針が決定された。 野戦における対空・対戦車射撃を主任務とする。 高度2,000m以下の航空機に対して効力を有する。 被牽引・繋駕・駄載の各種運動様式について研究する。 性能諸元は初速900m/s・重量450kg(前車のみ)/750kg(後車とも)・高低射界-5~+85度・方向射界360度。 主要構造は三脚式砲架・ガス式自動連発・鼓状弾倉(ドラム弾倉)・光学照準器の使用など。 開発は銅金義一中佐を中心に東京陸軍造兵廠で行なわれた。銅金中佐はオチキス式の機関砲が最適と判断し、新型機関砲はホ社の機関砲を参考に開発された。第一次試作品は1934年(昭和9年)1月に完成し、同月から6月にかけて機能試験・命中試験・陸軍歩兵学校及び陸軍騎兵学校試験・運行試験を一通り行った結果改修を要する点が認められた。第二次試作品は同年9月に完成したが、なお修正を要する点が見られた。第二次試作品を改修した二型は試製九四式野戦二十粍機関砲とも呼ばれ、同年11月に完成した8門は各種試験に用いられることとなった。試製九四式高は15発入りの鼓状弾倉を使用し、また三脚や照準具・撃発機など各部の構造が後の九八式とは異なっている。 1936年(昭和11年)6月には歩騎兵学校に委託しての実用試験を行い、それぞれの立場からの意見を得た。騎兵側からは1,000m以上の命中精度向上・車上射撃の簡易化・射撃準備時間の短縮といった点が挙げられ、改修に際しては平射能力を犠牲にすることもやむを得ないとの判決を得た。一方で歩兵側からは平射砲架の開発は不必要であるとの意見があり、試製砲については若干の改修と高性能な対空観測具との併用により概ね実用に値し得るとの判決を得た。同年8月には陸軍野戦砲兵学校に委託して実用試験を行った。試験では若干の改修により直距離1,000m以下の中・近距離高射火器として概ね実用に値し、また対戦車用としても精度は十分であると認められた。ただし野戦火器としては頻繁に行うと予想される車上射撃を考慮する必要があり、また駄載用としては大幅な改修を要するとされた。 昭和11年11月には自動車に積載しての運行及び射撃試験が実施され、同年12月には騎兵学校において自動貨車搭載型の実用試験が実施された。この試験では騎兵に常時随伴可能な運動性を付与するには車体を装軌式のものにすべきとされた。また同年末から翌年にかけて試作型(この時点では試製九七式二十粍機関砲と呼称された)が満州における昭和11年度北満冬季試験に供試され、低温化での実用試験を実施した。同試験では一部部品の強度向上・歩兵用の安定性増大・騎兵用の運動性向上などの改善点が挙げられ、また作戦地域によっては将来的に機械化が必要となる可能性についても言及された。 ここまで数年の期間に渡って各種試験を実施してきた本砲であったが、1938年(昭和13年)には開発中の試製高射機関砲に対し抜本的な改修が加えられることとなった。改修は初速の増大・各部の強化・曳光榴弾の使用・箱型弾倉の使用・分解結合の容易化・単発射撃の廃止・射手用腰掛の装備など広範囲にわたるものであり、改修した砲に対し試験を実施したところその成績は概ね良好であった。また同時期には本砲を搭載する装軌式の自走式対空砲も完成し、明野陸軍飛行学校で試験を行っている。昭和13年10月には陸軍防空学校に駄載型の試験を委託し、轅棹を使用するよう改修すれば実用に値するとの判決を得た。同年12月には一連の審査の総仕上げとして各種砲架の運行試験が行われた。被牽引型はサスペンションの改修とが必要であり、また被牽引用としては重量不足による安定性の不足が指摘された。輓曳用の運搬車は運行性・放列布置の容易性共に適当であると認められた。半装軌車搭載型も運行性・安定性・車上射撃時の操作性いずれも良好であり車載用として実用に値するとの判決を得た。以上をもって本砲の審査は終了し、1939年(昭和14年)に九八式高射機関砲として制式制定された。なお九八式とは開発年度である皇紀2598年(1938年)のことである。
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