女権運動から始まる
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「エリザベス・キャディ・スタントン」の記事における「女権運動から始まる」の解説
セネカフォールズに住む前から、スタントンはルクレティア・モットの称賛者であり友人であった。モットはクエーカーの牧師でフェミニスト、奴隷制度廃止論者であり、女性2人の出会いの場は1840年春、スタントンが新婚旅行先のロンドンで出席した「世界奴隷禁止条約(英語版)」であった。会期中に男性代表から女性代表を議事に参加させるべきではないと提議され採決にかけるという出来事がある。モットなども奴隷制度廃止団体の正規の代表に指名されていたのに、議事から排除されるというのだ。いちおう反論の機会は設けられたもの、結局は男性出席者の視界に入らない一角にロープを張って席を区切り、女性代表が移された。開票後、会場に到着した著名な奴隷制度廃止論者ウィリアム・ロイド・ギャリソンは男性代表の席を拒み、女性の間に着席してことの経緯に異議を示した。 モットという手本を得たこと、条約会議で女性を議事から締め出す処遇に甘んじたことから、スタントンは女性の権利への取り組みを強めていく。自身の少女時代の経験、セネカフォールズの新生活当初の思うに任せない日常にロンドンでのできごとが重なり、スタントンは発奮する。後日、以下のように記している。 妻であり家政婦であって、医師の役も務め魂の支えとして求められるという女性の側面、あるいは、すべてめちゃくちゃに乱れてしまわないかと常に目配りを欠かせない立場には、ちっとも心が満たされなかった。さらに大多数の女性の顔に浮かぶ疲れて不安げな表情を見るにつけても、社会全般がどこか間違っているのだから、なんとかしてただしたい、行動するなら女性のために積極的に手を打つべきだと強く感じた。世界奴隷禁止条約会議で受けた冷遇、女性の法的地位について読んだことすべて、そしてどこに行っても目に入って来る抑圧が心を占め、個人的な経験も重なった。すべての要素が申し合わせたように前進しろと促すかのようだった。すべきことは何か、どこから手を付ければよいのかわからないまま、抗議の場として公開会議を開くことしか頭に浮かばなかった。 1848年、これらの思いと認識を抱いたスタントンはモットとその妹マーサ・コフィン・ライト(英語版)、ジェーン・ハント(英語版)ほかセネカフォールズの女性数名を加え「セネカフォールズ会議」を7月19日と20日に開催した。出席者は300人超を数え、スタントンは自らアメリカ独立宣言をモデルに起草した〈所感の宣言〉Declaration of Sentimentsを読み上げ男性と女性は平等に作られたと宣言する。さらに決議をいくつか提案、当時は議論の分かれていた女性の投票権の要求もそれに含まれる。大会に出席したフレデリック・ダグラスとも非公式に協議し、女性の参政権を織り込んだ最終決議は、大量の賛成票を得て可決する。 セネカフォールズ会議からまもなくスタントンは第2回女性の権利条約会議にあたる1848年ロチェスター条約会議 (英語) (ニューヨーク州ロチェスター) の招待講演を頼まれ、活動家および改革者として地保を固める。1850年にはポーリナ・ケロッグ・ライト・デイビス (英語) から最初の全米女性の権利条約会議 (英語) の招待講演を頼まれるが妊娠中のため断り、代わりに支援者として名前を貸し、講演原稿を送って代読を頼むことにする。翌1851年、セネカフォールズの町でアメリア・ブルマーからフェミニストのスーザン・B・アンソニーを紹介される。アンソニーはブルマーの知り合いで、セネカフォールズ会議に出席しながら〈感情宣言〉とその後の決議に署名しなかった人物である。 女性の選挙権をめぐり協力したことでよく知られるスタントンとアンソニーだが、そろって参加した社会運動は禁酒運動が先で、短命に終わった女性国家禁酒協会 (1852年-1853年) の設立に尽力した。スタントン会長は飲酒を離婚の十分な原因とすべきと示唆し、多くの支持者の不興を買ってしまう。ただし禁酒運動と女性の参政権運動の結びつきは偶発的ではなく共通の関心事であり、目標が女性の選挙権獲得なら飲酒を禁じることに言及すると効き目があった。その後、各州で投票権を得た女性は男性につきものとみなされた暴飲を減らすさまざまな政治的措置を求めることができた。したがって2つの運動は頻繁に同盟関係を築いていく。 スタントンとアンソニーの焦点はすぐに女性の参政権や女性の権利をめぐる活動に移り、必然的にアリス・キャリーとフィービー・キャリー姉妹との交流がもたらされる。短い間ではあったが、フィービー・キャリーはアンソニーが主筆を務める新聞「革命」の編集者になった。 独身で子供がいないアンソニーが時間と体力を発揮し、スタントンが行けない遠隔地の招待講演を引き受けたように、ふたりは互いに能力を補完し合った。演説家として優れたスタントンには文才がありアンソニーの演説の多くに原稿を提供し、アンソニーは運動のまとめ役と戦術を担当した。スタントンはアンソニーに宛て「天国も地獄も、地上のいかなる力も私たちを引き離すことはできません。だって私たちの心は永遠に結ばれているから」と書き送っている。同様にスタントンが亡くなったときに「ニューヨーク・タイムズ」紙に弔辞を寄せたアンソニーは、スタントンが雷を作り彼女 (アンソニー) が「放った」と説明している。選挙権について比較的狭く絞ってとらえたアンソニーとは異なり、スタントンは広く女性の権利全般の受け皿を求めようとした。対立する視点は議論と衝突をもたらしても、意見の相違で友情や仕事上の関係が脅かされることはなく、2人は最初の出会いからおよそ50年後にスタントンが亡くなるまで、親友であり仕事仲間の間柄を保った。運動指導者としてスタントンとアンソニーの力を借りることが常識視されてはいたものの、まもなくふたりの声に他の人々が加わり運動内で指導的地位に就き始める。とりわけマチルダ・ジョスリン・ゲージ(英語版)の存在が大きかった。
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