女権運動家、校長、反奴隷制活動家(アメリカ合衆国、1849年―1884年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:31 UTC 版)
「マティルデ・フランツィスカ・アネケ」の記事における「女権運動家、校長、反奴隷制活動家(アメリカ合衆国、1849年―1884年)」の解説
1949年11月アネケ夫妻はニューヨークに上陸し、1850年3月にはミルウォーキーに居を定めた。ドイツの政治と文学に関する講演を行ってマティルデは生計を立て、またアメリカとドイツのドイツ語新聞通信員にもなった。同年8月20日次男のパーシー・シェリー・アネケが生まれている。 1851年マティルデ・フランツィスカは母と二人の妹ヨハンナ、マリーアをミルウォーキーに招き、1852年4月1日ミルウォーキーでドイツ語の女性新聞第一号を発行した。この新聞は男女同権を目的とした急進的新聞で、この発行によってマティルデはほぼ全てのドイツ語新聞から侮蔑と嘲笑を買うことになったが、エリザベス・キャディー・スタントンとスーザン・B・アンソニーは彼女に注目した。 1852年秋マティルデはニュージャージー州に引越し、1853年12月6日ニューヨークで、ある女性会議に初めて参加した。この時期彼女はアメリカの女権運動とも接点を持つようになっており、このニューヨークの会議で禁酒やナショナリズム、教権主義、男女不平等などに対する激しい演説を行った。また、そのすぐ後からドイツ語メディアで新聞記事や短い物語などを通じて反奴隷制をうたい、奴隷廃止運動を支える活動を始めている。 1855年12月5日には双子の姉妹ヘルタとイアラをもうけたが、1858年3月6日長男フリッツとイアラを天然痘で失った。夫のフリッツ・アネケが家族に種痘を受けさせることを拒んだためだったが、この時代の衛生事情を考えればそれは理解できないことではない。 1858年3月アネケ夫妻はミルウォーキーに戻り、それからちょうど一年後フリッツ・アネケはヨーロッパに出発した。1860年6月21日マティルデは重い肝臓病を患っていながら夫を追ってスイスに来た。1861年9月23日フリッツがアメリカ合衆国に戻った時二人は別れたが法的には離婚しなかった。アメリカ合衆国に帰るまでの間マティルデはジャーナリストとして活動し、メアリー・ブースを支援した。 1865年7月または8月にマティルデはミルウォーキーに戻り、その4週間後に友人のツェツィーリア・カップと共にミルウォーキー女子協会を設立した。カップは後にヴァッサー大学教授となった人物でフリードリヒ・カップの従姉妹だった。この女子校では授業は全てドイツ語で行われ、設立から18年間活動した。 1865年12月マティルデの母が死亡した。1869年マティルデはウィスコンシン婦人参政協会の共同設立者の一人となったが、この協会のために彼女は何回も全国婦人参政協会の会議に出席し、最初の副会長に選ばれた。 1872年12月6日、夫のフリッツ・アネケがシカゴで死亡した。マティルデは卒中が原因で1876年7月に右手が麻痺し、それ以降の著述は口述筆記によった。同年秋に長女のファニーが死亡した。 1880年6月5日ミルウォーキーで女性会議に出席して非常に注目された演説を行ったが、これがマティルデが人前に出た最後になった。1884年11月25日マティルデはミルウォーキーで67歳で死亡したが、埋葬式ではチャールズ・ヘルマン・ボッペが感動的なスピーチを行った。彼女の墓はミルウォーキー森の家墓地15区3番2号にある。 1988年11月10日ドイツ連邦郵便局はマティルデ・フランツィスカ・アネケを称えて切手(Mi827)を発行した。
※この「女権運動家、校長、反奴隷制活動家(アメリカ合衆国、1849年―1884年)」の解説は、「マティルデ・フランツィスカ・アネケ」の解説の一部です。
「女権運動家、校長、反奴隷制活動家(アメリカ合衆国、1849年―1884年)」を含む「マティルデ・フランツィスカ・アネケ」の記事については、「マティルデ・フランツィスカ・アネケ」の概要を参照ください。
- 女権運動家、校長、反奴隷制活動家のページへのリンク