天下人へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 22:40 UTC 版)
義興は永正元年(1504年)頃から上洛の具体的な構想を描いて領国内で臨時の段銭徴収などを行っていたが、永正4年(1507年)6月、足利義澄を11代将軍に擁立して幕政を牛耳っていた細川政元が暗殺された(永正の錯乱)。その後も細川氏内部では抗争が続いたため、畿内進出の好機と見た義興は、前将軍・足利義尹の上洛を口実として九州・中国の諸大名に動員令を発した。11月25日には右田弘詮らに本国の留守を任せて山口から進発し防府に出て、12月に備後にまで進出した。これに対して細川家では、政元の養子であった細川高国が義興と通じて、同じく政元の養子である細川澄元と対立・抗争し、永正5年(1508年)3月に細川澄元は高国・義興らに圧迫され、足利義澄と共に近江に逃走した。 4月27日に義尹を奉じて和泉国堺に入った義興は畿内の澄元方を平定にあたっていた細川高国との連携を強め、5月5日には高国を細川京兆家(細川氏宗家)当主と認める義尹の御内書が出された。そして、6月8日に義尹と義興は上洛を果たした。上洛を果たした義興は、7月1日には足利義尹を将軍職に復帰させ、自らも左京大夫(京兆)・管領代として細川高国と共に幕政を執行する立場になった。義尹は軍功により、義興に相国寺崇寿院領であった和泉国堺南荘(すなわち堺の南半分)を与えたものの、義興は「何事も元のように寺社本所領を返付されよ」と述べて恩賞を辞退して相国寺に返還してしまった。このため、義尹は代わりとして山城守護も与え、京都や奈良の公家や寺社も義興の寺社本所領の保護を公言する義興の態度に好感を抱いた。このエピソードはちょうど60年後に足利義昭を奉じて上洛した織田信長が役職よりも堺の支配を望んだのと逆を行ったことになるのだが、この事は後日思わぬ形で義興に跳ね返ることになる。 義尹の将軍復帰という役割を果たし終えた義興は不安定な領国情勢を危惧して帰国を望むようになるが、現実には細川澄元・三好之長らは京都奪還を目指してたびたび反攻してくるため帰国もままならなかった。そんな最中の永正5年12月に奈良の東大寺が 延徳2年(1490年)以来、大内氏に押領されたままの周防国の国衙領の返還を求めて閉門を行ったのである。義興は先の堺南荘の件で寺社本所領の保護を公言してしまったために東大寺の閉門を止めさせるために国衙領の返還を求める朝廷や幕府の要請に頭を悩まされる事になる。一方、東大寺側も興福寺などの他の有力寺院に同調を呼びかけたものの、義興が寺社本所領の保護政策を放棄することを恐れた彼らから同調を拒絶されたために孤独な戦いを迫られた。義興はやむなく翌永正6年(1509年)に国衙領を東大寺に返還することを表明して事態の収拾を図らざるを得なかった。 永正6年6月に如意ヶ嶽の戦いに勝利して細川澄元らが四国へと落ち延びていくと、永正7年(1510年)1月には細川高国と共に近江に侵攻するが、逆に敗北してしまった。これにより足利義澄方は一大決戦を決意し、永正8年(1511年)7月には摂津に侵攻(芦屋河原の合戦)して決戦を挑んでくる。これに対して義興は細川高国と共に迎撃するも、摂津でも和泉でも敗北(深井城の合戦)して丹波に逃走した。しかし8月14日に足利義澄が急死するなどの好条件にも助けられて、8月23日に船岡山城の決戦で細川澄元軍を破り、京都を奪還したのである(船岡山合戦)。なお、この時、万一周防へ退却することも考えた義興は安芸の国人であった多賀谷武重に堺の堅守を命じた。多賀谷はこの役目を果たしたが、これが結果的に細川澄元の支援する四国からの援軍を防ぐ効果をもたらしたとも言える。 この時の義興の活躍は相当のものだったようであり、永正9年(1512年)3月にはその武功により、従三位に上階されて公卿に列せられた。これは将軍である足利義尹の意向を押し切って後柏原天皇自らの決断で決めた決定(『実隆公記』永正9年3月26日条)であったが、義尹は最終的な判断は天皇に任せる旨を述べたため同意せざるを得なかった。また、娘を足利義維(義澄の次男)に嫁がせ将軍家の親族ともなった。永正13年(1516年)には大内氏に日明貿易(遣明船派遣)の管掌権限を恒久的な特権として与えるとする御内書と奉行人奉書が与えられた。これは細川高国の反対を押し切ったものであり、後の寧波の乱の原因となる。 しかし次第に将軍・足利義稙(永正10年(1513年)義尹より改名)や細川高国と不仲になり、さらに長引く在京に耐え切れなくなった領国の石見や安芸の国人の中で勝手に帰国する者が相次いだ。そこへ出雲の尼子経久が侵攻を開始してきた。義興ははじめ在京して尼子氏を討つため、永正14年(1517年)に石見守護となり、益田氏や吉川氏など石見在地の豪族と手を結んだ(ただし、尼子経久の侵攻と義興の石見守護補任については異なる解釈もある)。しかし尼子氏の勢力拡大は抑え難かったため、永正15年(1518年)8月2日に管領代を辞して堺を出発、10月5日に山口に帰国した。
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