寧波の乱の原因とは? わかりやすく解説

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寧波の乱の原因

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 04:47 UTC 版)

宋素卿」の記事における「寧波の乱の原因」の解説

大永3年1523年、明:嘉靖2年)には細川高国派遣した遣明船(綱司は僧侶岡瑞佐)の副使として再び渡航。このときの遣明船では、大内船(綱司は謙道宗設。3隻)が勘合符前回正徳次の勘合)を所持しており、細川船(1隻)が所有していたのは、幕府求めた前々回弘治8年次(1495年日本側では明応4年)の古い勘合であり、明側の対日貿易港であった寧波入港したのも大内船より遅いという、細川船にとってかなり不利な状況にあった。そこで宋素卿寧波市舶司大監である頼恩に賄賂贈り到着順に船内臨検するという先例覆して細川船を先に処置するよう便宜を図らせるとともに、嘉賓堂における席次岡瑞佐を謙道宗の上位に置かせることに成功した。これらの措置に宗設ら大内船の一行激怒し岡瑞佐を殺害宋素卿捕らえよう細川方を襲撃遣明船焼き払い、嘉賓館、東庫などを襲撃した。これに対し、明の官憲細川船に荷担して鎮圧を図るが、大内方は退くことなく暴行続けた宋素卿紹興城へ逃れたが、大内方追跡により明の役人劉錦らが殺害された。この寧波の乱は、日明間の大きな外交問題となり、後に市舶司大監は廃止日明貿易縮小余儀なくされ、私貿易増加後期倭寇激増いわゆる嘉靖大倭寇)へとつながる事件となった詳細寧波の乱参照)。宋素卿捕らえられ死罪とされ、投獄された後まもなく嘉靖4年1525年)に浙江省獄死した。

※この「寧波の乱の原因」の解説は、「宋素卿」の解説の一部です。
「寧波の乱の原因」を含む「宋素卿」の記事については、「宋素卿」の概要を参照ください。

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